106 ひよりの進路1
だが、昼休みになっても、中野は教室にあらわれなかった。
2時間で終わるということは、朝10時開始だとして12時までで、今日のスタジオは代官山のところって言ってたから、東急大井町線と東急東横線を乗り継いで20分程度。13時にはやって来ると思っていたけど、収録が長引いたのだろうか。
昼食を食べたあと、俺は下駄箱のところに向かった。周囲に誰もいないことを確認しながら中野の下駄箱を確認してみると、やはりまだ来ていない。
(べつに頼まれたワケじゃないんだけど……でも次の時間割を考えるとな)
そんなことを思いつつ、俺は中野の靴箱のなかに午前中の授業のノートを入れたエコバッグを突っ込んだ。誰かに見られたらラブレターを入れているか、スリッパを盗んで変な意味で愉しんでいると勘違いされそうなので、我ながら俊敏な動きだったと思う。
普段俺たちは、昼休みの屋上でノートの受け渡しを行なう。最近、石神井や本天沼さんとも話すようになった中野だが、他のクラスメートのいるところでは以前同様、一言も喋らない。ゆえに俺が自由に話せるわけもなく、今日みたいな日は自然と放課後か翌日以降に渡すことが多かったのだが、今回はあえて下駄箱に入れてみたのだ。
○○○
教室に戻っていつものように読書に勤しんでいると、チャイムが鳴る。
そうして5時間目の授業が始まろうとしたとき、中野が教室に入ってきて……その手には、俺のエコバックが握られていた。俺をチラッと一瞥すると、中野は意味深に小さくコクンとうなずき、隣の席に黙って座った。
どうやら、俺の思惑が通じたようだ。
周囲にはわからない程度分だけ、俺も小さくうなずく。
「今日はですね、外部模試の結果が返ってきてます」
5時間目はロングホームルームだ。
野方先生がそう告げると、クラス中は一気に憂鬱な空気に包まれた。4月に受けた外部模試の結果が今になって戻ってきたらしい。
「マジ返ってこなくていいんだけどー」
「絶対悪いわー」
「俺見ないでゴミ箱捨てるから!」
そんな声が、あちこちから聞こえてくる。
「やー、あたし全然自信ないなー。絶対点数悪いと思う!」
チラリと高寺のほうを見ると、そんなことを隣の女子生徒に話していた。なお、俺の記憶違いでなければ高寺はテスト当時、まだ転校してきていないはず。なぜそれがわからなくて成績がいいのか不明だ。
チラリと横を見ると、中野は表情を変えないまま、休んだ午前中の授業のノートをいそいそと書き写していた。この時間に遅れを挽回しようとしているらしい。殊勝な心がけだが、今からテスト結果が返却されることを考えると、さすがのマイペースさだ。
「今回のテストは、みんなにとって初めて志望大学を記入した外部模試になってます、うん。順に返却していくので、出席番号順に取りに来てください」
そして、ざわつく教室のなか、野方先生がひとりひとりにテストの結果を返していく。出席番号的に最後のほうなので、呼ばれるまでまだ少し時間がある。
(勉強するほどでもないし、読書でもしておくか……)
そんなことを思い、文庫本をリュックのなかから取りだそうとしたそのとき、隣の中野の机から消しゴムがポロッとこぼれ落ちた。気づいていないのか、中野は動かない。
仕方なく手を伸ばすと、その消しゴムの本体とケースの部分に、小さな紙が挟まれていることに気づいた。見上げると、中野は視線で「はやくその紙を取りなさい」と告げている。のがわかる。
言われるがまま、いや見られるがまま、俺は紙を取って消しゴム本体を中野の机に置く。中野は軽く頭を下げると、ふたたびノートに向き合い始めた。
3センチサイズに折られた紙を広げ、もう一度広げると、そこには……
『お心遣いありがとう。でも勝手に下駄箱を開けるのは……』
と小さな文字で書かれていた。
朝会ったときに貸してって言うから、でも昼休みに間に合わなくて次の時間がロングホームルームだから、その時間に写せるかと思って、気を利かせて入れておいただけなのに……まあ彼女らしい返答と言えばそうなんだけども。
「若宮くーん」
そんなことを思っていると、自分の名前が呼ばれる。教壇に歩いて行き、俺は成績表を受け取る。そして、広げてみると……
「良かった」
心の声が小さく漏れた。
記入していたところはすべてA判定だった。正直、国立は日和って書かなかったんだけど、これなら記入しておいても良かったかもしれない。いずれにせよ、安心できる結果である。
そして、同じように成績表を返却されたのだろう。中野も自分の席に戻ってきて、腰をおろした……のだが、その際に肘が当たり、ふたたび消しゴムが落ちる。今度は意識しての行動ではなかったせいか、消しゴムに向けて手を伸ばしたことで、体の重みで机が傾き、上に置いてあったノートやらが流れ落ちた。
「おいおい……」
小さくつぶやきながら、俺はそれらを拾い始めた……のだが。
その瞬間、視界に入ってきた文字情報に、俺は目を見開く。
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第一志望:判定不能(志望校不記載につき)
第二志望:判定不能(志望校不記載につき)
第三志望:判定不能(志望校不記載につき)
第四志望:判定不能(志望校不記載につき)
第五志望:判定不能(志望校不記載につき)
第六志望:判定不能(志望校不記載につき)
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視線を逸らすより先に、その文字列が俺の脳内に刻まれた。
驚きのあまり、遠慮という概念なく、俺は中野を見上げる。
中野は明らかに気まずい表情をしており、その夜の海のような黒い瞳には「見られてしまった……」という、困惑の波が揺らいでいた。
○○○
6時間目の終了を告げるチャイムが鳴り、先生が教室から出て行った。ショートホームルームのため、入れ替わりで入ってきた野方先生の点呼もそこそこに、部活動に向かう生徒たちがどんどんと去って行く。
その流れに乗じるようにして、俺はいつもより早く教室を出た。高寺が後ろから呼びかける声がしたが、女友達に呼び止められたのか、すぐに聞こえなくなる。
下駄箱のところにたどり着くと、中野がちょうどそこにいた。自分の靴を出すためにしゃがむと、中にエコバッグが入っていることに気づく。それを取り出しながら、独り言をよそおって、俺は話しかける。
「大学……行かないのか?」
すると、中野の動きが止まった。立ったまま、下駄箱の扉を閉じないでいる。
「一応確認なのだけど、見たのね?」
「……」
俺がなにも答えなかったのが、正解の合図だと察したらしい。
「そうよ。私は大学に行くつもりはないわ」
「親父に書いた手紙には行くみたいなこと書いてあったろ」
「予備校勤務の人にわざわざ本当のこと言う必要ないでしょう?」
「だからって絵里子にまでウソつく必要ないだろ」
「あれは、若宮くんのお母さんにああいうふうに聞かれたから、そう答えるしかなかっただけで……」
視線が合わないまま、俺たちは独り言の会話を続ける。
中野の本心を知り、正直、俺はショックを受けていた。最初はノートすら満足にとれず、成績は学年下位という有様だったが、勉強を重ねたことで中間テストでは順位を上げた。まだまだ先は長いが、今でも順調に成績が上がっている最中なのだ。
そして、そうやってノートを貸したり、教えたりするなかで。
俺はどうやら自分が思う以上に、先生的な気持ちになっていたらしい。
「……」
「……」
お互いに言葉が出ず、気まずい空気がふたりの間に流れる。
すると、他の生徒たちがやって来る足音が聞こえて、中野がパタンと下駄箱の戸を閉めた。それは会話が終える合図だった。
「そういうことだから……それじゃあ」
気まずさの残る声でそう言い残し、中野はその場を去って行った。




