105 ひよりと絵里子、ふたたび3
中野は困惑した表情で俺のことを見る。その顔を見る限り、ウソをついているわけではなさそうだ。
そして、オヤジの知らない一面を知ったせいで、彼女の言い間違いを指摘できない。
「てっきり、仕事した相手には全員手紙を送ってんのかと」
「そんなわけないでしょう? 仕事には相性ってものがあるわけだし、感性が合わない限り、手紙まで書かないわ。相手も迷惑かもしれないし、そもそも続かない相手に時間をかけるほど、私は博愛主義者ではないのよ」
「いや中野が博愛主義者でないことは最初から薄々、いやかなり濃々で感じてたけど」
「濃々なんて日本語はないと思うけど、通じてて良かったわ」
なるほど、中野のなかでの選別があるらしい。
「にしても、演出って」
「……お父さん、大学のとき演劇サークルの部長だったんだよね」
話を戻しつつため息をついたら、横から絵里子が口を挟んできた。心なしか、その顔はちょっとだけ嬉しそうである。
「えっ、そうなの?」
「うん」
「聞いたことないんだけど」
「んー、もしかすると照れちゃったのかもね?」
「照れる?」
「大学生の演劇なんて、ほとんどが青春の勘違いだから。お父さんのやってた芝居も、インテリを気取って小難しいことやってて、お客さんがみんな『意味わかんない』とか文句言うんだけど、『わからないのは君たちが無知だからだ。ゴダールとフェリーニを全作品観てから来い』とか逆ギレするような」
「なにそれめちゃくちゃ痛いなそれ……」
「でも実際、じつはやってる本人たちもよくわかってないみたいな」
「たしかにそれ、息子にバレたくない気持ちになるな……」
あの脳天気なオヤジに、そんな自意識ローションまみれインテリかぶれな時代があったとは……もはやすぐに裸になるお下劣な小劇場的芝居をやってたほうがまだ息子的には受け入れやすかったと思うと同時に(息子なだけに)、一方で俺の血がオヤジから来ていることに納得する。ミーハーで大衆向け作品好きな絵里子の血が混ざり、勘違いの度合いが減ったのだろうか。
「お仕事か……でも、そうだよね。もう20年近くサラリーマンだもんね」
そして、俺がひとりそんなことを考えている間、絵里子がつぶやく。懐かしさや時の流れの早さを実感しているような、そんな口ぶりだった。
「そっか、お父さん、ちゃんと仕事してるんだね」
「当たり前だろ。仕事先で遊んでたら引くわ」
「そうじゃなくて。お母さん、お父さんの仕事してる姿見たことないし。それに、自分自身が社会人経験ないから、想像するのが難しいというか……」
絵里子は長い間、病気で家に引きこもっていた。
だから、学校での俺を最近まで全然知らなかったし、小2のときの事件以来、知ろうとする余裕もなかった……というのは、先にも述べたとおりだ。
だが、彼女が知らなかったのは俺だけでなく、仕事場での親父もだったようだ。
「息子の同級生からお父さんの話を聞くって、なんか不思議な感じだね」
そこまで述べると、絵里子は中野に視線を向ける。
初めて目があい、中野は口をつけていたコップをテーブルに戻した。それは絵里子のことを軽んじるワケではない、むしろ真っ直ぐ真摯に向き合う目だった。
「ひよりちゃん、もしよければ、うちのお父さんの仕事のときの話、聞かせてもらえないかな?」
「もちろんです」
絵里子の言葉に、中野は笑顔でうなずいた。
○○○
「つまり、大御所とか年配の声優さんほど、声優である前に役者であれっていう考えの持ち主が多いんです。だから、プロフィールでも『俳優・声優』って並びにこだわりを持っていたり」
「ふむふむ」
「あとはそもそも『役者』って表記する人もいますね。舞台メインにたくさん出てらっしゃる方はそういう感じかもです」
「あー、でもなんかそういうのあるよねー。一般人は演技って言うけど、かじってる人だとお芝居って言うみたいな」
「ですです。でも、若い人はアニメが好きで声優を志したケースが多いので、結構意識の差がありますね。だから中には『最近の若い声優はアニメしか観ていない』っておっしゃる先輩もいます」
「なるほどー。宮崎駿みたいなこと言う人はどこの世界にもいるんだなー」
そんな業界事情を語っているのはご存じ、自称清純派女子高校生声優の中野。
そして、聞いているのは絵里子である。
うちのオヤジという共通のトークテーマができた結果、ぎこちなさは多少は残りつつも、いつの間にか普通に会話が成立するようになっていた。会話内容はニッチな声優事情についてで、正直昔ほどではないにせよ、人よりコンテンツに興味のある俺としてはそこまで興味をそそられないが、とはいえ、絵里子が楽しそうなのはいいことだ。
「そういえば、ひよりちゃんは大学はどうするのかな?」
そして、会話が始まって10分ほど経った頃、絵里子がそんなふうに問う。
「大学ですか?」
突然の質問に対し、中野はわかりやすくキョトンとした表情になった。中野の問いにうなずきつつ、絵里子は俺のほうを見る。
「昨日、惣太郎がオープンキャンパスの資料を家で見てて、『友達が見に行きたい大学に行く』って言ってたから」
「ああ、そのことですか……」
少し考えたような表情を浮かべたのち、中野がゆっくりと口を開く。
「オープンキャンパスは、まだ決めてません。大学は……も、考え中です」
「そうよね。2年の時点でどこ受けるかなんて、なかなか決められないよね」
「ですね、なかなか……」
「でも、成績すごく上がったんでしょ? 惣太郎から聞いたよ」
「ええ、まあ」
「ひよりちゃん、きっと集中力がスゴいんだろうね。だからお仕事でも活躍してて」
そして、俺の襟元を引っ張ると、絵里子は指さしながらこう続ける。
「どうせならオープンキャンパス、一緒に行けばどう? ほら、石神井くんだっけ。とかも誘って」
「おい絵里子、勝手に話を進めて……」
「そうですね。きっとそうなると思います」
一瞬、絵里子を注意しかけるが、中野は少しの迷いもなく、顔を縦に振った。
彼女のことを友達と呼ぶ勇気がなかなか持てない俺としては、そして彼女の行事系への熱の低さを知っている身としても、それは素直に嬉しい反応であった。
「そっか! じゃあみんなで楽しんで来てね!」
「はい、楽しんできます!」
絵里子の言葉に、中野はニッコリ微笑む。
……だが、俺は気付いていなかったのだ。その笑顔の奥に、秘められた本音があり、俺たちにはまだ打ち明けられていなかったことを。