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104 ひよりと絵里子、ふたたび2

 そんな会話を夜にしたからだろうか。


 翌朝、絵里子が例のパン屋に行きたいと言い出した。中野と遭遇して以来、一ヶ月以上ぶりの訪問だ。今日は絵里子の通院の日でもあり、その前に行くとちょうど都合が良いというのもあった。


 香ばしいパンの匂いのなか、俺はいつものとおり、ピザトーストに手を伸ばす。横で絵里子が「またそれ?」「たまには他のものも食べてみればいいのに」という感じで小さくため息をつくが、なにを言われてもべつに構わない。俺は好きなものを選んでいるだけなのだ。


 なお、絵里子はバゲットとベーコンとチーズのパンを、自分のトレーに入れていた。


 そんなふうに喋りながら、俺たちは2列あるレジの片方に並ぶ。すると、隣のレジに並んでいた黒髪の女性の横顔が視界に入った。見慣れた顔だな……と思った直後、彼女が私服姿の中野であることに気づく。


 膝上丈の白のシャツワンピというシンプルな出で立ちだが、それだけに素材の良さが際立っている。髪型はポニーテールで、アクセントの青のリボンが清潔感をさらに増している。背中には、学校にも持ってきている黒のリュックが背負われており、結果的にコーディネートを引き締めていた。


 俺が気づくのに遅れること数秒後、メガネをかけていない、彼女の大きな瞳が俺を捉えて、さらに大きく開いた。


「あ」

「よう」

「……ここで会うのも2度目ね」

「だな。今日も仕事なのか?」

「ええ。でも2時間くらいで終わるから、終わり次第学校に行く予定よ」


 そう言うと、中野は肩にかけたスポーツバッグをちらりと見る。この中に、制服やらが入っているらしい。


「だから、お昼休みに貸してもらえないかしら、午前の授業のノート。ほら、今日はレジスタンスの授業がふたつもあるでしょう?」

「ああ、そうだな……あいつら、タブレット使わないだけじゃなく、黒板を撮影するのも許さないもんな」

「なぜかね。そういう面で助かるかなって、この高校選んだのに」

「黒板撮影が許されたら授業休んだ人も困らないんだけどな」

「まあ、『撮影を許したら板書する生徒が減る』って言い分もわからなくもないけどね。そもそも1回板書したところで暗記に繋がるのかははなはだ疑問だけど」


 そんなことを話していると、中野の視線が俺の後ろへと向かう。


 遅ればせながら、俺の背中に隠れるようにして、絵里子が小さくなっているのに気づいたらしい。自宅では弁慶ってた絵里子だが、中野のオーラに圧倒されたのか、普段よりなんだか10センチくらい小さくなっている感じだ。


「あ、若宮くんのお母さんですよね? 私、同じクラスの……」

「そうちゃん、お、お母さん帰るね」


 そう言うと、絵里子は俺にトレーを押しつける。


 結果、俺は両手にトレーを持ち、二人分のパンを朝から食べようとしてる、大食漢みたいな感じになった……のだが、ちょうどそこで前の客が会計を終え、ちょうど俺たちの順番になった。


「次のお客様どうぞ」


 店員が俺たちを呼ぶ。


 いい機会だ、絵里子には一歩を踏み出してほしい……そんな気持ちが心のなかで浮かぶと、気づけば俺はこう言っていた。


「おい絵里子。会計の順番になったぞ」

「で、でも……」

「でも俺、2人分のお金ないし」

「……か、代わりに払っといて」


 絵里子は俺に小銭用のがま口財布を押しつけようとする。


 しかし、そんな絵里子を制止したのは、俺ではなく中野だった。


「あの……良かったら、一緒に食べませんか?」


 絵里子は小刻みに震えながら、自分より少し背の高い、中野を見上げた。



   ○○○



 会計を終えた中野が、俺と絵里子が座るテーブルへとやって来る。


 トレーに載っていたのは、しゃきしゃき大根のサンドイッチと豆乳黒ごまオレだった。言うまでもなく、今日もしゃきしゃき大根はパンに挟まれない状態で、皿の上に乗っている。量はやや少なめだが、栄養バランスはなかなか良さそうな組み合わせだ。でも、昼もサンドイッチなのに、朝も食べてて飽きないんだろうか。


 ……と、そこで中野の視線が俺の制服のポケットに注がれる。そこに入って、いや入りきらずに刺さっているのは、例の哲学堂先生の新作だ。


「また新しいやつ? 相変わらず読書家なのね」

「そうでもないけどな。ミステリとか弱いし、ホラー系は怖いから読んだこともない。乙一とか、たぶんずっと読まないと思うし」

「そういう返事がくるところも相変わらずね」

「……」


 そこまで話すと、中野は絵里子に視線を移す。


 息子の友達と数年ぶりに相対した絵里子は、緊張で借りてきた猫のようになっていた。なので、必然的に中野が先に口を開くことになる。


「この間、ちゃんと挨拶できていませんでしたよね? 私、若宮くんと同じクラスの中野ひよりです」

「え、えっと……」

「ここにはよく来るんですか?」

「いや、よくというほどでは……」

「えっ?」

「いや、べつにそんな言い直すことじゃ……」

「あ、そ、そうですよね」


 萎縮するあまり小声になる絵里子に、中野が気を利かせてなんとなくで合わせた結果、笑顔で絵里子をdisったような感じになってしまった。


 中野が喋るごとに、絵里子が体を縮こませていく様子は、まるで親や幼稚園の先生以外の大人と喋ることにまだ慣れていない、幼児の男の子のようだった。昨日、家で俺に女子3人のことをあれこれ聞いてきた勢いはまったく感じられない……うーむ、マズいな。


 と、中野が少し黙ったのち、話の内容を変える。


「若宮くんからたぶん聞いていると思うんですけど、私、声優で、旦那さんとも一度お仕事させていただいたことがあるんです」

「あ、仕事?」


 緊張のせいで、そのことを絵里子はすっかり忘れていたらしい。心なしか、先ほどより大きな声になっている気がする。


「大学受験予備校のナレーションは初めてだったんですけど。若宮さん、ひょうきんな方で、現場がとっても楽しくて」

「あ、そうなの……」

「ああいうナレーションの現場って、普通は監督が演出したり、取り仕切るんですけど、俊台予備校の場合は若宮さんが結構細かく意見されて」

「なにそれ」


 中野が思わぬことを言い出したので、思わず言葉が出てしまう。


「あら、聞いてなかった? 最後のほうなんか『そこはもう少し押さえて』とか『息継ぎの場所変えてみましょう』とか、どっちが監督? って感じだったのだけれど」

「いや、全然聞いてなかったわ……なんかもう、親父がすまんな」


 予備校の広報という真面目なイメージの仕事につきつつ、根は筋金入りのお調子者な親父である。普段とは違う空気感に、社会人として持っておくべき自制心を失ってしまったのだろう……と思いきや、中野は首を横に振った。


「え、全然。むしろ、音監さんよりずっと的を得た指摘で、助かったくらいだったわ」

「……そうなの?」

「ええ。だからお礼の手紙も出したのだけど……」

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