103 ひよりと絵里子、ふたたび1
その日の夜、とか書くとその日に限った行動に聞こえるかもしれないが、いつもと同じように、俺は自室にてコンテンツ観賞ノートをつけていた。
少し前まで、昼休みになると旧校舎の地下倉庫につながる階段でひとり読書に耽り、感想をノートにシコシコ記入していた俺だが、中野たちと屋上で過ごすようになってからと言うもの、それまでほどは時間を取れなくなっていた。
ゆえに登下校や休み時間に読書を進め、読み進めたとしても、感想を記すところまでいくつかない。今までは「学校→活字系、自宅→映像系」と分けて時間を費やしてきたので、本音を言えば家では映画や海外ドラマ鑑賞したいのだが、できずにいた。
(動画は早送りはできないから、もうちょっと本を効率的に読めるようになるか、それかさらなるムダを削るかだな……これ以上、コンテンツに費やす時間は増やせないし)
あと、アニメも諸事情で最近あまり観られていなかったのだが……まあその理由は後ほど明かすことにしよう。
そんなことより、感想を記している作品について。今日読んでいたのは、哲学堂依比古という小説家の新作だ。
哲学堂はキャリア25年のベテラン作家で、ラブストーリーやクライムサスペンス、少年同士の友情を描いた物語、家族をテーマに据えた作品など、多種多様な作品を発表し続けている。とくに思春期の青少年の心理描写を得意としており、瑞々しい描写にはファンも多い。
俺もそれなりに好きで、中学時代にハマった際は、短期間で代表作をそれなりに読んだ……のだが、ここ2年ほどは疎遠になっており、新作が発売されたことも知らずにいた感じだった。
(好きな作家が新刊、新作を出したらオタクはすぐに飛びつくのにな……)
いくらデビュー25年とは言え、その著作は数十冊。十分に読める量のはずなのだが、なぜか20冊程度で止まってしまった。べつに彼の作品に問題があるワケではなく、とくに理由なく手が伸びなくなるのだ。
だが、今回は本屋の店頭に並んでおり、久しぶりに手に取った。彼としては珍しい、小説家を主人公にした作品だとわかったからだ。俺は小説家を主人公に据えた作品が好きだったりする。これだけクリエイターへのリスペクトを綴っていれば、もはやなんの驚きもないだろうけど。
読んでみると、その小説はとても面白く、哲学堂作品ならではの情感たっぷりの描写、リアルな感情表現、穏やかな展開に魅了された。
特筆すべきは、登場人物たち「感情の流れ」だ。能動的には動かず、基本受け身なのだが、周囲で起こる出来事に巻き込まれるうちに少しずつ気持ちが変わり、当初は後ろ向きだったことに対して前向きに接していく。その変化がじつに自然で、川が流れるように自分の気持ちもそこに沿っていき、最終的に主人公を応援するに至っていた。うん、ラノベもいいけど、そうじゃない小説もやはり面白いな。
「そうちゃーん!」
と、そんなふうに読み進め、感想を記していると、絵里子の声が聞こえてきた。
部屋を出ると、リビングでパンフレットらしきもの数冊とプリントを持っていた。
「これ、テーブルにあったけど」
「あ、悪い、置き忘れてたみたいだ」
そう言って受け取ったのは、大学のパンフレットと、学校で配られたオープンキャンパス案内のプリントだ。
「もうオープンキャンパスの時期なんだ?」
「そうそう。毎年2年はこの時期に行くことになってんだ。あらかじめチョイスされた大学のなかから選んでな」
「好きなとこ行けるワケじゃないんだ?」
「ああ。教師的には『大学に連絡する必要があるから』って理由らしいけど、少しでも善い大学に連れてって、そこを受けてほしいって浅はかな目論見が透けて見えるな」
「透けて見える。エッチな目論見だ……」
「エッチな目論見ってなんだよ」
「そうちゃん、どこの大学見に行くの?」
「ん、まだ決めてないけど……」
教師や学校に対してはツラツラ文句を言える俺だが、自分の進路について聞かれると困ってしまう。成績的には東大はさておき、トップクラスの大学に行ける感じなのだが、行きたい大学がないのだ。
なんとなく文学部とかそっち系に進むのが自分には合ってそうだなと思いはするが、大学ごとの違いとか、教授ごとの違いとか、そういうのは全然わからない。今まで好きに読書をしてきたが、学問や研究として接するとどんな感じなのかもわからない。
と、そんなことを思っていると、
「あれ、この人ってそうちゃん好きな作家さんじゃない?」
絵里子がスマホを示す。そこには某私立大学のHPが表示されており、教授のひとりとして哲学堂先生の写真があった。
「あ、哲学堂先生だ」
「好きだったよねたしか」
「うん。まあガチファンから俺なんか好きって言うのもおこがましい感じだけど、でも20冊くらいは読んだな」
「もう十分好きでしょそれ」
「そっか、大学の教授もやってるんだ」
もともと専業作家になる前は、出版社で編集者をしていたり、フリーランスでライターをしていたことで知られている。また、ドラマ等のノベライズを別名義で手がけていたことも有名で、この辺は『別冊カドカワ』あたりのインタビューでも語っているはずだ。
(でも、まさか大学教授になっていたとは……もともとプロモーションにも熱心な小説家ってイメージだけど、教授もその一貫なのかな)
しかも、よく見ると、教授に就任してからすでに数年経っており、プロモーションと呼ぶには期間が長かった。
というか、そもそも俺が彼の作品をそれなりに読み込んでいた頃にはもう、この大学で教鞭をとっていたようだ。
「この大学気になるんだ?」
「気になるってゆーか……までも、今回はあくまで学校行事だから。本当に行きたいって思えばひとりで見にいくことだってできるし、だから今回は友達が行くほうにするかな」
「友達って中野さんのこと?」
「えっと……」
思わぬ反応に、言葉に詰まる。
というか、自分自身の言葉に、言葉に詰まった。友達って言ったけど、明らかに石神井だけを意図して発した言葉じゃなかったからだ。
いつの間にか、無意識でそんな言葉を発するようになっていたらしい。
……まあでも、中野を友達と言っていいのかは正直あやしいところだけど。ふたりで話してても空気はヒリヒリ、会話は悪口の応酬って感じだからな。
「ん、どうかした?」
「いやなんでもない」
「……あー、さてはあの子のこと思い浮かべながら言ったでしょ??」
「いやべつにそういうワケじゃ……」
「いやーん! 青春だひゃっふ~っ!!」
「うるさい近所迷惑だから静かにしろ」
「で、他にも何人かいるって感じだその顔は!? おんにゃのこ!?」
「……」
この状態になると、いくら注意してもダメであることは知っている。絵里子のテンションを下げるには、全部説明するしかないのだ。
というワケで俺は早くも諦めて、いろいろと明かすことにする。
「……よく一緒にいるのは、男子1に女子3かな」
「え、なにその女子多めな感じ? みんなかわいい?」
「その場合、まず、かわいいの定義から教えてもらわないと」
「あ、もういいや。その答え方、3人ともかわいいって言ってるのと同じだもん」
「……」
「男子は石神井くんとして、で、他のふたりはどんな子なの?」
「どんなって言われても」
「写真とかないの。あ、なかったらキスプリでもいいよ!」
「キスプリだって写真だよ! ないし、あっても母親に見せるワケないだろ!」
母親の口から飛び出す攻めの単語に、俺は呆れつつ、返答していく。
しかし、面倒な雰囲気を出しつつも、少し嬉しくもあった。なぜなら、今まで絵里子とこういう親子の会話を、ほとんどしたことがなかったからだ。
原因は小学校2年のときのトラウマ。俺が初めて友達を連れて来たとき、絵里子が緊張しすぎて自分の部屋から出られなくなった、あの事件だ。
息子の小学生の友達に対して緊張するというのは、さすがの絵里子にとってもショックな出来事だったようで、それ以降、俺に学校の話を聞かなくなっていったのだ。友達のことを聞くことで、自分の胸の傷口が開くことを恐れていたのだと思う。
同じくトラウマを持つ人間として、その気持ちは痛いほどわかる。
しかし、である。
パン屋で中野と偶然遭遇したことで、そんな絵里子にも地味に変化が起きつつあるらしい。今思うと、そう言えばあの後、中野のことを聞いてきたりしたっけな……。
「じゃあオープンキャンパスのとき、撮ってきてね? わかった?」
「はいはい、わかりましたってば」
まとわりついてくる絵里子を振り払い、俺はパンフレット・プリント一式を持って、自分の部屋へと戻ったのだった。