98 乞うか講師か1
吹き抜ける風が、ほんのりと熱を帯び始めている。
屋上から中庭を見下ろすと、生徒たちの大半がブレザーを脱ぎ捨て、白シャツか、カーディガンを腰に巻いて過ごしていた。気づけば季節はすっかり初夏。昼休みに差し込む陽は、かなり高いところから降り注いでいる。
元気っ子の高寺は白シャツを腕まくり。本天沼さんは半袖のシャツに紺色の袖なしベストを重ねており、中野は長袖シャツにカーディガンを腰に巻いたスタイル。三者三様だが、みな着こなし方に個性が出ている感じだ。
そして、石神井はカーディガンを首に巻いた、いわゆるプロデュサー巻きという出で立ちで、うさんくささを演出するのに余念がない。ある意味、奴が一番着こなしに個性が出ていると言っていい。
美祐子氏と話してからと言うもの、本天沼さんも昼は屋上に来るようになった。中野が決していい表情をしていたわけではないが、そもそも開放されていない屋上に勝手に居座っている手前、拒否するのもおかしいと思ったのか、なにも言わずに受け入れていた。高寺が弁当箱を持参してきているため、追い返すのがしのびない……的な理由もあったかもしれない。
「いやー、残念だなあ。俺も、中野さんと高寺さんのマネージャーさんに会ってご挨拶したかった」
「ほんと謎な流れだったけどね。そして、石神井くんがあの場にいれば謎な流れが加速してそうだった」
甘そうなジャムパンを両手に持って交互に食べながら石神井が悔しそうにつぶやくと、意外と健康に良さそうなバランスの取れた手作りの弁当の高寺が、苦笑まじりに返す。
あの後、俺、高寺、本天沼さんの3人は溝の口駅近辺でおろされ、美祐子氏は中野を乗せたまま、赤坂にある事務所へと向かった。なんでも打ち合わせとインタビューが一件入っていたらしい。人気声優は、イベント出演を終えたあとでも容赦なく別の仕事が入っているのだ。
そんな多忙な彼女は今日も今日とて、教科書片手にサンドイッチをモグモグしていた。普段なら3人以上の場では、自分から話を切り出さず、静かにしがちな俺だが、なぜだか中野の様子を見ていると、一言言わずにはいられず……
「中野、体調とか大丈夫なのか?」
その言葉に、深い集中の海から浮かび上がった中野が、ふっと顔をあげる。
それを待って、俺は続きを述べる。
「お節介かもしれないけどもう十分忙しそうだし……」
「若宮くん、ご心配ありがとう」
感謝の言葉を述べつつも、ぴしゃりと壁を作るような言い方だ。
「でも、私は常に自分のスケジュールをきっちり管理しているわ。体力と相談しつつ、美祐子に相談しつつ、上手くやっているつもりよ」
「中間テスト前疲れてただろ」
「そんなことないわ。あれは疲れてるように見せて、石神井くんを油断させようと目の下を塗ってただけ」
「目の下にクマできてた自覚はあったんだな。そしていくら石神井でもそんなことで油断はしないだろ」
「……え、あれ塗ってたんだ……くそっ、すっかり騙された……」
石神井が肩を落とし、嘆く。うん、中野→俺→石神井という形での、想定通りの3段落ちである。
そんな茶番はさておき、俺は中野に尋ねる。
「中野、たとえ話していいか?」
「ダメと言ってもするんでしょう?」
「もしスマホの電池残量がゼロに近い赤の状態だとする。スマホを使いたい用事があるんだけど、べつに急ぐ必要はない。このとき、中野ならどうする?」
「どうする? そんなのちゃんと充電できるまで待つけれど」
「だよな。スマホの場合、多くの人はそうする。でも自分の体となると、ストイックすぎる人は回復しきる前にまた全力を出してしまいがちだと思うんだよ」
「……」
「バッテリー残量が赤じゃなくなった時点でまた頑張り始める。でも、回復したわけじゃないから、すぐにしんどくなる。今の中野って、なんかそういう気がするというか。頑張るために頑張らないことも大事だろっていうか」
すると、中野は持っていた教科書を膝に置き、妙に真面目な表情で俺に視線を移す。
「ど、どうかした……?」
「若宮くんってさ……なんだか、たまに親みたいなこと言うわよね」
「……えっ、親っ!?」
「父親か母親かで言うと母親」
「しかもそっちかよ。いや、意味がわかんないんですけど……」
同い年の女子に親と言われた経験は当然ないので、自然と焦ってしまう。しかも、母親だなんて……いくら普段、絵里子のお世話をしている俺としても、普通に会話していいるだけでそんなふうに言われるのは、ちょっと心外ですらあった。
しかし、中野にとってこの話はもう終わったものなのか。
「意味がわからないと言われても、そう思ったから言ったってだけ」
「そう思ったって」
「それに他のみんなには通じてる感じだけど?」
そう言われ、見渡すと、たしかに高寺、石神井、本天沼さんがうなずいていた。
「話を戻すと。若宮くん、声優だけで食べていくのって本当に難しいの」
そして、中野は宣言通りに話を戻す。母親っぽいと言われどうすべきかわからない俺だが、そこをしつこく聞いても迷惑がられそうなので、今は黙っていることにした。
「それは何度も聞いてるけど……だから講師をやるってか?」
「そうよ」
「……」
「声優だけで食べていくには色んな条件があると思うけど、そうね。最低条件は『第一線で活躍し続けること』かしら」
「それが最低条件って……ハードル高くない?」
「ハードルは高いわ。でも、現実的にそうなってるの。第一線を退いた人が、ほどほどに頑張ってほどほどに稼げる第二線や第三線……そんな場所はこの世界には残念ながらないの。常にトップを走ってないといけないのよ」
「じゃあ……どうすれば、食べていけるのかなあ?」
「それが講師の仕事なの。もちろん、一流でないとそういう仕事も回ってこないけどね」
石神井、本天沼さん順番に尋ね、中野が答えていく。
その態度、対応が信頼の証拠なのかはさておき、もはや石神井、本天沼さんに対し、仕事のことを隠すつもりはないのは事実のようだった。
テスト対決や遠足を通じ、さらに今回、小学生向け声優講座をやることになって、中野の心のなかにあった壁にようなものも、少しずつ取り払われているのかもしれない。
そんなことを俺が思う間も、中野の話は続いていく。
「これは美祐子の受け売りなのだけれど、どれだけ一世を風靡した声優さんでも、年齢を重ねると仕事が来にくくなるそうなの。一緒に仕事をしていた制作スタッフが出世して、現場にいるのが繋がりの弱い年下ばかりになって、声がかかりにくくなるんだって。そうなると、逆に『仕事もらえませんか』って頭を下げることになるの、若い頃以上にね」
あまりに厳しい現実に、俺たちは思わず言葉を失う。
一応、同業者である高寺も、年を重ねたときのことまでは考えたことがなかったのか、黙ったままだ。
そして、まとめるような口調で、中野が述べる。
「つまりね……『乞うか講師か』、声優が生き残る道はその2択ということね」
「べつに上手いこと言わなくていいから」
自分でも上手いこと言えたと思ったのか、中野はふっと頬に笑みを浮かべている。良いこと言っているのかもしれないが、ドヤ顔ですっかり台無しだった。
「でもさ、よく考えたら、あたしもりんりんも声優の専門学校って出てないよね? りんりんは元子役で、引き抜きでアイアムに入ったんでしょ?」
「そうね」
話を変えるように高寺が言うと、中野が素直にうなずく。
「あたしはオーディションだけど、最初がアイアムの養成所だったから、専門学校がどんな感じかわかんないんだよね」
「そうなのよね、実際問題……」
中野の表情を見るかぎり、メリット面を考えて話を受けたものの、細かいイメージは全然ないようだ。