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花のない街  作者: 稲荷田康史
2/2

第一部 ケイの冒険

 その日、ケイは繁華街のレストランに着くと、ガラスのドアを鏡がわりに髪型とネクタイを整え直した。ケイは今夜のデートはこれまでになく楽しいものになるだろうという期待でウキウキしていた。ケイがガラスに顔を寄せていると、目の前のドアが急に開き、金色のモバイル端末を持った毛皮のコートの中年婦人が現れた。ケイが慌てて身をよけると、彼女はムービー・スターみたいな足どりで通り過ぎていった。確かあれは2060最新モデルだったかな、と、ケイはどうでもいいことを考えた。そして、気を取り直すと自分の手に持ったものに目をやった。

 ――これを見た時のエルの驚き様ったらないぞ。

 ケイはプレゼントを満足気に眺めたあと、それを背中に隠して中へ入っていった。

 レストラン特有のやわらかな喧噪の中から、窓際の席でこちらに微笑みかけている彼女を見つけるのはたやすいことだった。ケイは足早に彼女のもとへ寄った。

「だいぶ待たせちゃったのかな」

「ううん、今来たばっかりよ」エルはちょっととぼけてみせた。二人は顔を見合せて軽く笑った。

「でも、これを見たらきっと許してくれるよね、エル?」

 ケイは背中に隠していた花束を差し出した。

「ああ、こんなきれいな花を……」花束を受け取ってそう言ったきり、彼女は嬉しさと驚きで声も出ない様子だった。

「ほんとは奮発してもっと大きな花束が欲しかったけど、なかなか――ね。うちの会社はPFC(ピー・エフ・シー)といってもケチなんだよ。商品を社員に安く分けてくれる訳でもないしね」照れ隠しにそんなことを言いながら、ケイはテーブルを挟んでエルと向かい合わせに腰掛けた。

「そのうち君の御両親のところへも正式に御挨拶に行こうね――いいだろ?」そう言ってケイはエルの目を見た。エルは頷いた。

 小さく乾杯したあと、二人は楽しく語り合いながら、運ばれてくる海藻と多糖類ゼリーのオードブルや人造野菜のサラダ、貝ときのこのスープ、それに魚料理などを味わった。

 食後の代用コーヒーを飲みながら、ケイはふと、彼の贈った花束を見つめるエルの表情が曇っているのに気付いた。

「それどう? 何なら改めて別の花束にしてもいいんだよ」

「いいえ、そうじゃないの。こんな素敵なプレゼントは初めてよ。でも……」

「でも?」

「結局この花も造り物なのね。私一度でいいから本物の花が見てみたい。本物の花を手に取ってみたいわ」

「本物の花……」ケイは一瞬口をつぐんだ。「でも大丈夫さ、そのうち誰かがタイムマシンでも発明して、過去から花を山ほど採ってきてくれるんじゃないかな」

 エルはさびしい笑顔を浮かべた。


 ケイは自分の部屋の窓から、ぼんやりと街の風景を眺めていた。

 ケイの住む街は、高度に街としての機能を追求された、二〇六〇年のこの時代においても新しい都市である。超高層ビルが立ち並び、その間を四階層のハイウェイの曲線が縫っている。緑は市民のための公園にほんの気持ちばかり見られるだけである。この街は、確かに機能美という最高の美しさを備えているが、時として人々の心に、自分達の単調で無味乾燥な毎日を改めて思い知らせるガラスの街でもあった。

 エルとレストランで会った夜以来、ケイの頭の中には、彼女の言った本物の花が見たいという言葉がこびり着いて離れなかった。

「本物の花か……」ケイは溜息まじりにつぶやき、以前本で読んだ事を思い返した。

 その本は、今から三十年前すなわち二〇三〇年代に起こった地球外細菌による植物伝染病の記録である。記録によれば、その頃、土星の衛星タイタンでの調査を終え、その土や岩石等を採取し地球に帰還した一機の無人探査船があった。探査船自体はやや旧式であったものの、当時においても厳重な検疫プロセスを経て回収作業は行われた筈だった。ところが、これはひた隠しにされていたことだが、その検疫プロセス中にあるトラブル――おそらく人為的ミス――があったらしい。

 探査船が帰還してから間もなく、被子植物――特に高等な単子葉植物を中心に異常な伝染病が発生し、ラン科・ユリ科など様々な花たちが次々と枯れていった。科学者達がその原因は地球外細菌であることを解明し、人々が事の重大さに少しずつ気が付き始めた時には、すでに単子葉植物がほとんど死滅し、双子葉植物のキク科・バラ科といった花々も発病し始めていた。やがて、この細菌は、植物の花被や葉に含まれるアントシアン・カロチノイド等の色素に誘引されるらしいこと、アルカロイド等の植物の二次代謝物質存在下で特に活発に増殖すること、さらに、被子植物の中でも発達した花被を持たない種類や裸子植物以下の下等な植物はこの細菌によっては何の影響も受けないことなどが、科学者達の努力によって判明した。しかし、ようやくタイタンから侵入してきた細菌への対抗策が案出され始めた頃には、被子植物のほとんど全てが絶滅され、もはや地球上には美しい花を咲かせる植物は全く存在しなくなったのである。

 この大異変のため、人類は食料危機・生態系の危機に直面し、世界中は大混乱になった。国連や各国政府は現在の科学技術をもってすれば深刻な事態は避けられると訴えたが、焼け石に水だった。

 当時すでに、バイオ・テクノロジーの発展に伴いジーン・バンク(遺伝子銀行)やセル・バンク(細胞銀行)といった生物の種の保存のためのシステムというものも整いつつあったが、まだまだ小規模で数も少なかった。これ程の大異変に直ちに対応できる段階ではなかったのだ。

 絶滅した被子植物のサンプルがとんでもない貴重品となったため、その保管場所を狙ったセル・バンク・ロバー(細胞銀行強盗)が横行した。テロリストや各国秘密工作員も暗躍することとなった。大学研究室や官庁の研究所さえ白昼堂々襲われる始末だった。輸送船のシージャック、航空機のハイジャックも後を絶たなかった。ついには軍隊が出動する事態となり、一部地域では軍事衝突も起きた。盗まれたサンプルにしても、取り扱いを知らない者が封を開けるなどして大気にさらしてしまい、ほとんどが駄目になったらしい。

 国連や各国政府は非常事態を宣言し、絶滅した被子植物のバイオ・テクノロジー研究は、これを一時凍結し、行ってはならないとした。そのサンプルも当局が押収・管理するとした。逆らう者には断固とした厳しい措置が取られ、警察力・軍事力による徹底的な統制・管理が行われた。セル・バンク・ロバー達も次々と逮捕され処罰された。

 これらの動きによって、ようやく世界は落ち着きを取り戻し、食料危機・生態系の危機も他の関連技術で当面回避された。

 しかし、絶滅した被子植物のサンプルの大部分は行方不明となり、回収・保管されていた筈のものもある日確認してみたらもぬけの殻だったというような事態は依然頻発した。当局の者すら横流ししていたのだ。水面下では陰謀・謀略の激しい駆け引きが続いていたのだ。

 結局、当局が回収した筈のサンプルも暗黒地下世界に流れてしまい、ジーン・バンクやセル・バンクといったシステムはその主要な機能を失った。

 事実上、絶滅した被子植物の痕跡は地上から姿を消したのだった。

 こうして人類は、花という美しい友を失ったのであるが、その哀しみは造花という唯一の慰めによって和らげられることになったのである。

 ケイが企画営業部の社員を務めている会社「PFC(ピー・エフ・シー)」(プラスチック・フラワー・カンパニー 設立二〇三五年)の開発した「プラスチック・フラワー」は、造花とは思えぬほど本物そっくりの形・色・香り・手触りを持っていた。またそれは同時に、ナイフで切り付けても傷つかないほど実物とはかけ離れた強靭さも持っていたが、ひとたびこの商品を売り出すや、PFCは一躍一流巨大企業となったのである。

 近年、プラスチック・フラワーは価格が高騰し、貴金属類に迫るほどのものとなり、上流階級のステイタス・シンボル化しつつあった。

 しかし、ケイは、メディアの力で消費者の心を操り後発企業との競争に明け暮れさらには悪い噂も囁かれ始める――といった最近のPFCの経営に、やや失望を感じ始めていた。ケイは、この仕事は人々の心に潤いを与える夢のある商売だと信じていたからである。

 ――例えばあの会議にしてもなあ……。ケイは去年のことを思い起こした。

 ケイは、入社してからまだ年期も浅いということもあり重要な会議に参加することはなかったのだが、その日は入社三年目の社員研修という意味も含め、互いの企画案を発表・検討し合うという企画営業課合同会議に出席することになったのである。ケイも、もとよりプラスチック・フラワーに興味があり、自分なりのアイディアがいくつかないわけではなかった。そしていい感じに仕上がったと思える企画書をケイは用意していった。

 会議室には大きな角の丸い長方形の会議用机があり、それを取り囲むようにしていかめしい上司達やいかにもエリートらしい先輩中堅社員それにケイも含めた若手の社員達が席に着いていた。前方の壁には発表用のスクリーンがあり、その横の壇上で若手社員がそれぞれの企画を順に発表していった。ケイの前に発表された企画はPFCカスタマーの高級ブランド志向を押さえたものであり概ね好評をもって迎えられたようだ。ただケイにはそれらは若干優等生的な模範解答であるという気がしないでもなかった。

 いよいよ順番が回ってきて、ケイは気を落ち着かせながら発表を始めた。

「現在PFCの主力商品は一流デザイナー『マリー・ロワイヤル』ブランドの高級インテリアです。それは私もよく理解しています。ですが、それらは一般の消費者にとって手が届きにくいものになりつつあることも否定できません。そこで私は一般のOLの人達などにも親しみやすいカジュアルなプチ・インテリアというものを提案したいと思います。それがお手元の企画書にあるものです。プラスチック・フラワーの他社にはない質感の高さを活かしたインテリアで、基本的にはその昔の一輪ざしのような小さなフラワー・ベースです。新進気鋭のアーティストによるポップなデザインの花びんのバリエーションがセールス・ポイントです。」

 ケイは二、三のデザイナーの名前を挙げて説明を続けていたが、ふと見ると、目の前の上司や先輩社員達の面々が皆全く同じような無表情な顔をして話を聞いていることに気付き、一瞬ぞっとした。

 ――まるでアンドロイドのような人達だ……。

 ケイはそう思ったが、なんとか大きな間違いをすることもなく一通り発表を終えることができた。

 会議はケイの企画の検討に移っていった。

 上司の一人が質問した。「君の挙げた『ヒロコ・ミズシマ』というのは誰ですか」

「若いアーティストで彼女の3Dコンピューター・グラフィック・アートには、デジタルながらも深い味わいがあるという定評があります」ケイは答えた。

「私は知らないな」とその上司はそっけなく言った。

 別な上司が言った。「君が若々しい感性で自由な発想をするのはとても良いことだとは思うよ。だがやはり実績から言って『マリー・ロワイヤル』ブランドの高級路線は外せないのだよ。他社も『エリザベート・ノワール』や『アグリッピナ・ザロメ』といった一流ブランド・デザイナーを起用して追い上げを図っているし、その主要な市場に今は力を注ぐべきなのだよ」

 中堅社員の一人が言った。「そういうマイナー志向の文化があることは分かるけど、君の趣味ってだけじゃ今時一流の商業ベースには乗らないんだな」

 ケイは腹立ちを抑えながら控え目に反論した。「私もまだまだ勉強不足かもしれません。それに『マリー・ロワイヤル』ブランドも本当に見事なものですし、従来のやり方を全て変えようと言っている訳でもありません。ですが、固定観念に捕らわれがちな風潮や現状維持に留まりがちな定番化といったものに対して、また違う角度からものを見てみるということも次世代への変化に向けてはきっとプラスになると思います。またPFCのような大企業が無名のアーティスト達に創作の場を提供することは、この街の文化の発展のためにとても良い影響を与えることになると考えます」ケイは会議室の人々を見回した。彼等は無表情なまま「まだ甘いな」とか「実績がないんだよなあ」とか「やっぱり今ひとつ弱いんだな」といった意見を述べるばかりだった。彼等はその口振りは軽妙で快活なのだがどこか自分達と異なるものは絶対に寄せ付けないという冷たい無機質な雰囲気を発散させていた。ケイはまたぞっとするようなものを感じ、それと同時に少し哀しい気持ちにもなった。人と人との間には決して解り合えないことというものもあるのだろうか。

「とにかく我が社の高級ブランド・イメージは誇り高き伝統であり、採算の取れない一般向け商品は造るべきではない」とまた別の上司が言った。「そう」「その通り」と会議室の社員達は頷きながら口々に言った。

 ケイはエイリアンの群れの中に一人いるような気分になった。

 その会議室で最も高い地位にある課長が口を開いた。「申し訳ないけど、君の企画は今のところ採用できないようですね。だが、ケイ君の研究熱心さは理解できましたよ。あともう少し検討する余地がありそうですね。ご苦労さま、どうもありがとう」

「分かりました。また考え直してみます」そう言ってケイは発表の場を降りた。ケイとてまだ駆け出しの社員であるし、ビジネス界の厳しさといったものを本当によく知っているわけでもない。でもやはり多少の口惜(くや)しさは心に残っていた。それよりもケイにとっては、上司をはじめとする社員達のアンドロイドのような冷たい印象が忘れられないものとなった。


 ケイはもともと画家志望だったのだが、様々な事情もあってその方面の学校に行くことはできなかった。ケイは幼い頃事故で両親を亡くし、親戚のもとで育てられ、奨学生として大学を卒業したのだ。そしてPFCに就職してこの街で暮らしていたのだ。それでもケイは絵画や彫刻がやはり好きであり、社内でも商品の企画というよりはもっと専門的なデザイン関係の部署を希望していた。ところが新人研修過程が終わって配属されたのは企画営業部だった。一、二年が過ぎても、ケイは、自分は今すごく場違いなところにいるのであり、本当はもっと相応しい居場所がきっとどこかにあるのではないかという気がしていたのだ。

 ケイは割り切れない気持ちを抱えながらも仕事には励んだ。それでも、このままずるずると本来の自分が失われていくのではないかという不安をどうすることもできなかった。それとも人は誰でもこういうことを心の中で解決していくものなのだろうか。ケイには分からなかった。どこか遠い世界へ逃げ出したくなることもあった。そんな時ケイはエルの笑顔を思い出すことにしていた。彼女さえそばに居てくれるなら、多少の不満など忘れられるような気になるのだった。愛すべき家庭を持つことができ、決して悪くはない待遇の仕事に就くことができているのならば他に何を望むことがあるというのだろうか。自分は何が不満なのだろう。しかしやがては自分も段々とあのアンドロイドのような人々の一人になっていくのだろうか。ケイの心はまた迷いを感じ始めた。時おり心の中を冷たい風が吹き抜けるような気がするのだ。

 ――そもそもオレは何がやりたかったのだろう。オレはこの街で一体何をしたいと思っていたのだろう……。


 ケイにはもう一つ気にかかることがあった。

 それは、製造管理部に勤務している同期の友人の話である。友人はある時ケイにこんな事を告げた。

「実は、お前になら話せるんだが、いいか、ここだけの話にしといてくれよ。シティ中心区から人里離れた地域にうちの社の研究施設らしきものがあることは知ってるだろう? ごく一部の人間しか立ち入りが許されてなくて、研究開発部の連中によればそこはPFCのエリア51とも呼ばれているらしいんだ。特に最近は色んな動きがあるようで、どうやらその施設内には極秘のある物が持ち込まれているらしい。それからな……」友人は今までよりもさらに声をひそめて言った。「ある筋からの情報によれば、いいか、驚くなよ、そこの実験場では生き残った花の栽培が行われているらしいんだ」

 反問しようとしているケイを制しながら友人は続けた。

「いやいや待て、確かにこれはある種の“伝説”に過ぎないのかもしれない。しかし、三十年前、全ての花、それにその種子まで細菌にやられたことになっているが、種子の中には辛うじて被害を免れたものがあるらしい。それに、うちの社がその種子らしきものを秘かに買い集めていたという噂もある。どうやら生き残った種子から植物を再び増殖させる実験が行われているらしいんだ。もしかするとな、ケイ、もう一度この街に、本物の花が咲き誇る日がやってくるかもしれないぞ」

 この話を聞いた時、ケイは半信半疑だった。なぜそんな重大なことが一企業の手で行われているのか。あるいは、我が社の科学技術を信頼した国との共同事業なのだろうか。いやいや営利主義の我が社のことだ、きっとまたよからぬ新製品でも開発しているに違いない。しかし――

「本物の花が再び咲き誇る日か……」

 ケイは、少女の様に目を輝かせて楽しそうに花を摘むエルの姿を思い浮かべた。

 ケイは一つの決心をした。


 その研究施設は、郊外の閑静な住宅地域からさらに離れた山間にあった。

 施設の敷地へ入るゲートから延びた一本道の片側は、緩やかな斜面になっていて、ススキやシバなど被子植物の中で絶滅を免れたイネ科の雑草が生い繁っている。ケイは、その草藪の中に潜んでいた。月は雲に隠れがちであり、ケイの姿は夜の闇が包み込んでくれるはずである。

 さて、どうやって忍び込んだものかな、と、ケイは考えた。ゲートには守衛が一人いるだけだから案外楽に入れそうだが、最近は防犯システムも完全無人化しつつあるから油断ならないし……とにかく、ここで何が行われているか見届けてやるぞ――あっ。

 その時、一本道の彼方から、こちらに近付いてくるヘッドライトが見えた。それは、施設へ向かってくる二輛つなぎの列車の形をした大型コンテナ車のものだった。

 コンテナ車は、ケイの前を通り過ぎ、ゲートの前で停まった。運転手は守衛に通行許可証らしきものを見せていた。

 その隙に、ケイはすばやく、一つ目と二つ目のコンテナの連結部に、鉄パイプの把手を掴んで飛び乗った。コンテナ車はすぐに動き出し、施設の敷地内へ入っていった。

 しばらくして方向転換し、守衛からは死角になっている場所まで来ると、コンテナ車が停まらないうちに、ケイは飛び降りた。物陰に身を潜め、周りを見回すと、間もなく目的の建物は見つかった。

 それは、敷地内では一際目立っている、一見体育館の様な巨大な建物である。ケイは、身を屈めながら建物の入口に駆け寄った。

 ドアには鍵は掛かっていず、押すと簡単に向こう側へ開いた。中へ入ると、そこは真っ暗闇であり、目が慣れるにしたがって、今いるのはロビーの様な場所で、奥にはもう一つの扉があることが判った。ケイは物音を立てないように忍び寄り、奥の扉を開けた。

 突然目の前に太陽が現われた様な目映い光がケイに押し寄せた。ケイは一瞬眩惑され、手で目の前を蔽った。やがて、眩しさに目を(しばたた)きながら、ケイは中の様子を見回した。

 ケイは驚きで声を失った。

 その建物の内部は広大な一つの空間であり、その床は一面の、赤・青・黄などの原色や、様々なパステル・カラーをした、色とりどりの花の海だった。天井からは太陽光に近い光が沢山のライトから降り注いでいた。ケイは遠い昔にどこかでこんな風景を見たことがある様な気がした。それは夢の様なおぼろげな記憶である。ずっとずっと以前に、自分はいつもこんな美しい世界の中を駆け回っていたのではなかったか。そこはケイが今まで抱いていたパラダイスのイメージそのままであった。

 ケイはしばらく茫然としていたが、やがて興奮した様子で、一輪の花を掴み取った。すると、その茎はすぐに折れ、花弁は触れるとはらはらと散り落ちた。

「間違いない、本物だ! 本物の花だ! そうとも、この脆く儚い美しさこそ本物の花の証なんだ。あの話は事実だったんだ。ここでは生き残った花の増殖が行われている。うちの会社は単なる営利主義ではなかったんだ。利益はほとんど、この街、いや、世界中に再び花を咲き乱らせるためのこの研究に使われていたに違いない。オレが入社した頃に抱いていた夢は間違ってはいなかったんだ。なんて素晴らしい光景だろう。ああ、エル、本物の花だよ、もうすぐ君の好きな花がこの街に咲き誇る日が来るんだよ、エル」

 ケイはエルの好きなスイセンの花を一輪静かに摘み採り、その手に握り締めた。

 次の瞬間、ケイは、背中から胸を貫く衝撃を受けた。ケイは花の海の中へ俯せに倒れ、何が起こったのか解らぬまま急速に薄れていく意識の中でつぶやいていた。

「本物の花だよ……エ……ル……」


PFCの社長室には、黒い革張りの椅子に深々と腰掛けている白髪の男と、その前には、幹部と思われる中年の男がいた。

「社長」中年の男が言った。「実は昨夜、我が社の実験場に侵入した者がいます」

「何」社長は鋭い目を一瞬光らせ、豪勢なデスクの向こうからやや身を乗り出した。

「その男は我が社の企画営業部は社員だったのですが、その場ですぐに射殺されました。男の身辺を調査しましたが、どうやら産業スパイではなさそうです」

「そうか」社長はほっと安堵の溜息をつき、また深く椅子に座り直した。そして言った。

「今この機密が他社に漏れることは絶対に許されん。あの花は我が社の画期的な新発明だからな。いわばとっておきの切り札というわけだ。しかも業界全体の命運を左右しかねない最終兵器と言えるものだ。少なくとも、最も新しく建てたプラスチック・フラワー工場の採算が取れるまでの五年間は極秘にしなければならん。画期的な新発明は常に長期間封印されるものなのだ。過去にそんな例はいくらでもある」

「あの花はそれほど恐ろしい新発明なのですね」

「うむ、あれはいわば『NEO(ネオ)・プラスチック・フラワー』とでも言うべきもので、水と有機物や無機物を与えれば自ら高分子を合成して生長していく新素材で出来ている。つまり本物同様に生長する造花なのだ。しかもある条件を満たすと生長をやめ枯れてしまうようになっている。外観だけでなく、構造の弱さ脆さまで本物そっくりだ。おそらく簡単に実物と区別できる人間はいないだろう。実物と違うのは、増殖し子孫を残さないというところだが、そんな機能は無い方が好都合だ。脆くてやがて枯れ増殖もしないのなら、その後また確実に新製品を買わねばならんというわけだからな。今迄の製品の欠点は長持ちし過ぎるということだった。しかし今度のはそうじゃない。そしてそれがまたより本物らしいわけだ。これを売り出せば従来のプラスチック・フラワーは全てそっぽを向かれガラクタ扱いされるだろう。今のうちに売り捌いてしまわなければな――」社長の目には老獪な色が浮かんだ。幹部は黙って頷いていた。

「おそらく遅かれ早かれいずれは他社もプラスチック・フラワーを凌駕する物を造り出すだろう。しかし、その時も一歩先んじるのはPFCでなければならないのだ。その時この封印は解かれ、NEO(ネオ)・プラスチック・フラワーが真価を発揮するだろう――」白髪の男は語り続けた。「――我々の新製品開発の研究を、生き残った種子から花を再び増殖させる研究だと思う者もおった様だが、そんな馬鹿な。本物の花が再び現われたら、誰もがそっちを買い求めるに決まっておる。プラスチック・フラワー企業の破滅につながる。確かに生き残った種子はあった。我が社がそれを莫大な金とコネクションを使って買い占めたのも事実だ。しかし、それは生き残りの種子を全て処分してしまうためのものだ。もうこの世には本物の花など無いのだ。これで我が社の安泰は確実だ。やがては、この街、いや、世界中にNEO(ネオ)・プラスチック・フラワーが咲き誇る日が来るのだよ」

部屋中に社長の乾いた笑い声が響いた。

第二部へ続く。

大変勝手ながらかつ恐縮でございますが、第二部以降は「エブリスタ」で有料販売することといたしました。どうかそちらをご覧いただければ幸いです。(現在、準備中です)

「小説家になろう」運営様また読者様には、ひらにお詫び申し上げます。


追記

「エブリスタ」での有料販売は全く売り上げがなかったため現在第二部以降も無料公開になっております。続きはそちらでお楽しみいただけます。

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