4-16 侯爵、叫ぶ
†
蛮族少女とメイの決闘が佳境を迎えつつあるその頃。
「放せ、放さんか! この儂を誰だと思っ――うぎゃんっ」
地面に放り出されて情けない悲鳴を上げた、エイブラハム・ダウニング侯爵である。でっぷりと太ったその体重で強かに背中を痛打し、しばらく地面の上でのたうっていたが、
「……ッ! き、きさまっ!」
ようやく蛮族の男が自分を見下ろしていることに気付くと、身体を起こして身構えた。腐ってもクブの街を統べる大貴族。腰に吊るしていた剣を引き抜くのは見事な気概といったところか。だが明らかに鍛錬の足りていないへっぴり腰では全く様にならない。
「貴様、一体何者だ!? この儂をダウニング侯爵と知っての狼藉、覚悟はできておるのだろうな!?」
蛮族の男はそんなエイブラハムに向かって、
「ンディロドロ、ドラデルラルディラ、ドルディルドン」
と鼻で笑いつつ肩を竦めてみせた。
「…………?」
しかし当然ながらエイブラハムはディンドロ族の言葉なんてわからないので首を傾げるだけである。
せっかく仕草だけは中々様になっていたのに、相変わらず要所で締まらないのは最早そういう芸風なのだろうか。
訝しむエイブラハムを見て、どこか気まずそうな顔で蛮族の男は「ディロ、ディー、でぃあ、あー、あー、テステス、テステス」と喉の調子を確かめる。
「さて。失礼いたしましたなエイブラハム・ダウニング侯爵閣下。どうも初めまして」
胡散臭いにこやかな笑顔を張り付けて、手を差し出す――が、
「ふん、無礼者め」
「おっと」
剣の切っ先で払われたので、リオンは手を引っ込めた。
「もう危ないなぁ。挨拶と握手は人間関係の基本だぜ。愛と平和で行きましょうや」
「いきなり人のことを連れ去るような者に言われたくはないわ!」
「はは、そりゃそーだ」
「クソ! 避けるな!」
「ヤでーす」
振り回される剣を、軽々と躱すリオンに苛立つエイブラハム。ますます怒り猛って剣を振り回すが、全く鍛錬が足りていない。運足、重心、基礎もできていない。
素人が腕だけでブン回すような剣にリオンが当たる筈もないし、当たったところで素の防御力で十分だ。髪の毛ほどの傷もつかない。
それでもリオンはエイブラハムの攻撃を避けた。余裕なその態度にエイブラハムの怒りは尚も募り、剣撃はさらに雑になっていく。
そうやってある意味一方的な攻防を続けること数分。
運動不足なエイブラハムの息が上がって来た。
「この、おのれ……ちょこ、まか、と、ぉぉ――あっ」
人跡未踏の森の中である。
地面から浮き上がった木の根に足を取られて、エイブラハムが躓いた。
「よっ、と」
エイブラハムの身体が流れた瞬間、リオンが動いた。手にしていた蛮族の槍を振るい、エイブラハムの手にしていた剣を叩く。剣は勢いよく飛んで、離れた木の幹に深く突き刺さった。
「えっ。あれっ?」
エイブラハムが空になった手と、飛んで行った剣を見る。
その隙だらけの胸元を槍の柄でトンと押すと、エイブラハムはコテンと尻もちをついた。
「あっ、いっ、うっ、」
「握手、しましょうか?」
「えっ、お……おお」
にっこり笑った笑顔のリオンに凄まれて、つい差し出された手を握ってしまったエイブラハムである。
そこではた、と彼は気が付いた。
そもそも。
コイツは一体誰で、ここは一体どこで――、部下たちは?
逆上していた血が下りて冷静になってくる。
ここはどこか? 蒼天連峰の森の奥。危険な魔獣の住処だ。
部下たちは? どこか向こうだ。少なくとも周りには居ない。
コイツは誰だ? 自分の武力では歯が立たない誘拐犯。
今だって槍の柄でなく穂先ならば、簡単に殺すことができたはずだった。
遠くでギャアギャアとけたたましい鳴き声を上げて、魔鳥が飛び立った。その音にびくりと肩を震わせる。
「ラブアンドピース、大事だよな」
「あ、ああ。そうだな、儂もそう思うよ。は、はは……らぶあんどぴーす」
†
「それで貴方様は一体何者で、ここは一体どこなのでございましょう。そもそもなぜ儂を攫って来た――来たんでしょうか?」
転がっていた岩を椅子代わりに座った蛮族風の男に向かって、エイブラハムは訊ねる。直立不動のその姿勢だと腹が出っ張り非常に見苦しい。
「俺か? 俺はリオ――えー、リオンとでも呼んでくれ」
「おお、リオン! かの異神討伐の大英雄ですな! なるほど、貴方も武人ならばその名にあやかりたいということですな!」
「……せやねん」
咄嗟に偽名を思いつかず、つい本名を答えてしまったとは今更言いにくいリオンである。
「で、アンタを攫って来た訳だが。アンタを殺すとか脅すとか、そういう物騒な話ではないんだよ。ちょっとしたお願いを聞いてもらいたいだけで」
「こ、殺さないんですか本当ですか!?」
「お、おお」
ずいっと寄って来られて、リオンは一歩引いた。
美女ならばともかくハゲデブのオッサンに寄られて喜ぶ性癖は持ち合わせていない。
「ふふふこの不肖エイブラハム・ダウニング。頼みとあらばどのような事でも叶えて見せますとも」
「さっきとエラく態度が違うなアンタ」
「そりゃそうですとも。この儂の生殺与奪、リオン殿が握っておられますから。命惜しさに態度の一つくらい変りますとも。あ、足をお舐めしましょうか?」
「いらん! なんだその変わり様は!?」
「このくらいできなければ貴族社会は生きていきませぬぞ、リオン殿」
揉み手で腰の低いエイブラハムを見て、リオンはある意味で戦慄を覚えた。こいつ、この状況に置かれて完全に開き直ってやがる。
「それでリオン殿。頼みとは? 一生使えきれぬほどの財宝でしょうか? それとも大陸に一匹しかいない水晶猫? エイブラハム家の家督ということてしたら、先ずは貴族になっていただかないとよろしくありませぬな。儂の養子になってから遠縁の娘と結婚する形ならなんとか……領地経営は儂が実権を握ってお飾りの領主としてですな」
「待て待て、そんなモン欲しくない! あとさらっと傀儡にするつもりだろお前」
「まさかそんな。ですが領地経営はあれで専門知識が必要ですからな。ご自分でなさるというなら家庭教師を宿ってみっちり勉強するところから」
「だからいらねぇって」
「と、なると――よもや」
エイブラハムが胸と股を押さえて身を捩った。
「よもやじゃねえよ張っ倒すぞこの野郎。真面目にやれ」
「は、ははっ! ですが金も珍品も貴族家の立場もいらないとなると、儂に頼みとは一体何を?」
エイブラハムはエイブラハムで、割と現状を正確に把握しているらしい。いま何かを求められたとしても、エイブラハムには身に着けた衣類と剣、あとは身体と命くらいしか持ち合わせた物がないからだ。
「頼みっていうのは、今回の件だ。つまり、白蛇の魔獣討伐を中止にして欲しい」
「……それは」
意外な提案にエイブラハムは言葉を飲んだ。
なんとかリオンの頼みとやらを聞くふりだけして無事街に戻ったら全力で反故にするつもりだったのだが――
「……理由をお聞きしても? 白蛇討伐を中止することに、リオン殿に何のメリットもあるようには思えませぬが。それに儂には領主として、領民を害する魔獣を討伐する義務があるわけでして、つい先日もトウヅ戦王国の戦団の協力のもと森を荒らす魔獣を討伐したばかりなのです、はい」
なお、その時討伐した森撃巨猪から採れた牙は剣に加工されて、エイブラハムのコレクションに加えられている。
「俺にメリットは殆どねぇよ。けど、討伐中止はアンタのためになる」
「儂のため? その心は?」
「例の白蛇――実は地神なんだよ」
「……」
ちじん。
エイブラハムは貴族であり、実物を見た事は無いが地神というものがどういうものかもちろん知っている。成り立ちも、役割も。
「お、おいエイブラハム。お前顔色ヤバいぞ。白くなったり青くなったり――あと汗。すげぇ汗かいてる……おい、大丈夫か? おい?」
「り、リ、リリリ、リオン殿?」
「お、おう。どうした? 寒いのか? すげぇ震えてるけど」
「震えなどどうでもよいのです! もし――もしですぞ? 儂の討伐軍が仮に地神の元までやってきたら――ど、どうなるかと思います?」
「どうなるって、そりゃもちろん……」
少し考えて、リオンは答えた。
「お前んとこの領地が焼け野原になる、かな。知ってるだろ、傲慢公の伝説」
「ふあ~~~~~~~~!?」
エイブラハムは天に向かって叫んだ。




