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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

清議(せいぎ)の見方(みかた)

作者: 吉幸 晶

一度乗せた作品です。

作者の拙い操作で消えてしまいました。すぐに乗せ直そうとしましたが、諸事情により遅れてしまいました。

 あとがきの最後に、本編に無い追記がありますので、あとがきも最後までお付き合いください。



       運転手



 いつもと同じ時間に起きて、朝食を取り身支度を済ませた。

 鞄と妻が作ってくれた弁当を持ち「行って来るよ」と声を掛ける。

「行ってらっしゃい」

 いつも通りに妻と子供たちが返事をし、玄関で見送ってくれた。

 営業車に乗り込みエンジンを掛けて家を出る。

 ルームミラーに手を振る家族の姿が映っていた。


 今日もいつもと同じ日が送れると思っていた。


 直行で午前中に二軒の客先へ出向き、納品をして注文を取る。

 昼少し前に出社して伝票の処理をした。

 昼になり妻の弁当を自席で食べる。

 メールやネットを見たのち、午後の客先との資料を確認した。

 鞄に資料を詰め込み、普段通り午後一時に会社を出た。


 一軒目の客先と打ち合わせが終ると、近くのコンビに寄る。

 コーヒーを飲み、次の客先へ電話を入れた。

「ではこれから伺わせていただきます。宜しくお願いします。」

 電話を切りエンジンを掛けて駐車場を出た。


 行った先は大口の客先で、一時間の打合せ時間を見ていた。

 打合せは細部までに及び、予定していた時間を超え長引いた。

 車に戻った時には、陽は傾き始めていた。

 次の約束の相手へ電話をする。

「すみません。予定より一時間も長引きまして――」

 遅れていることを詫びてその客先へ急ぐ。


「ここを曲がった方が信号二つカットできるな」

 いつもは住宅街を極力避けて営業車を走らせている。

 大分陽が落ち辺りは薄暗くなっていた。

 数分でも早く着く為に、仕方なく客先への近道を優先した。

 比較的交通量も人の通りも少ない道だが、十字路やT字路は多い。

 交差点の都度徐行して、いつも以上に注意を払って運転した。

 正面にアパートが見えるT字路に差し掛かる。

 手前で標識の指示通り一時停止をし、左からの通行人を先に渡す。

 再度左右を見て車をゆっくりと進めた。

 半分曲がった時に、運転席の後ろで『ドスン』と音がした。

 慌てて車を停めて降りる。

 後輪の手前。路上に子供が倒れていた。


 今日もいつもと同じ日が送れると思っていた。


 しかし今日は、いつもと同じ日にはならなかった。

 急ぎ警察と救急車を呼んだ。当然、会社へも連絡をした。


 警察の聴取を受けた。

 目撃者が『子供から自動車に飛び込んだ』と証言をしてくれた。

 閑静な住宅街が、サイレンの喧騒で沸いた。

 しかし子供の親は現れなかった。

 仕方なく救急車は子供を病院へ搬送した。


 搬送先の病院で子供は亡くなった。

 医者は子供の栄養失調と発育不良が、死因のひとつだと言った。

 別件で偶然来ていた少年課の刑事が子供に気付いた。

 翌朝、母親が病院に呼ばれた。

 母親は『当時は仕事で出掛けていた』と言い。

『明け方に帰ったが、酔ってそのまま寝た』と続けた。

 そんな母親は『親の監督不行届き』と責められた。

 事故が死因の要因なのか。

 あるいは事故ではなく自殺ではないのか。

 審議を会社の保険会社と警察が話し始めた。

 しかしどの様な事になっても、自分の事故責任は消えない。


 もう今までと同じ日を過ごす事はできなくなった。



 数日後の早朝、同じT字路にトラックが入って来た。

「事故が有ったようだな」

 運転手が道路端に手向けられた花を見て言った。

「慌てる事は有りません。充分に気を付けてください。」

 助手席の者はそう答えた。

 運転手はT字路の手前で停まり左右を確認する。

 二人が同時に「歩行者無し!車輌無し!」と左右を確認しあった。

 トラックはゆっくりと前へ出た。

 運転手の目の前を数羽の雀が通り過ぎた。

 驚きブレーキを踏む。運転席の後方で『トン』と軽い音がした。

 運転手が窓から外を見るが何も見えない。

 トラックが右へ曲がって走り出すと『ポン』と音がした。

「ジュースのパックでも踏んだか?」

 二人がサイドミラーで確認する。

「その様ですね。」

 運転手がサイドミラーで、白い潰れた物を見て言った。

「ではそのまま真っ直ぐ進んで。」

「了解しました。」


 トラックは早朝の住宅街を静かに走り去った。






       子供



 チュンチュンと雀の鳴き声で、子供は目を覚ました。

 目を覚ますと、まわりを見て母親を探す。


「ママお腹すいたよ」

 テーブルで寝ている母親に言いました。

 しかしお母さんは目を覚ましてくれません。


 チュンチュン

 チュンチュン


 雀の声が賑やかに聞こえ、子供は外へ出ました。

 ガードレールの上で四羽の雀が楽しそうに話しています。

 子供はべそをかきながら近付きました。

「チュンチュン。どうして泣いているの?」

「ぼくね。お腹が空いているの――」

「チュンチュン。それならお母さんに、ご飯を貰えば良いじゃない。」

「言ったよ。でもね。ママはね、何度も言うと怒るんだ。」

「チュンチュン。どうして?」

「家にはご飯が無いから。言う事聞かないと叩かれる。」

「チュンチュン。それなら、お父さんに言えば良いんだよ。」

「今、パパはいないんだ……」

「チュンチュン。どうして?」

 四羽の雀が声を揃えて聞きました。

「この前お仕事にいったまま。それからはママと二人だよ。」

「チュンチュン。それは寂しいね。」

「前は知らないおじさんが来たけど」

「チュンチュン。知らないおじさん?」

「うん。そのおじさんはね、ママを泣かすの」

「チュンチュン。お母さんはいじめられているの?」

「うん。だからぼく。お母さんのそばから離れないでいたの」

「チュンチュン。偉いね」

「でもね。おじさんは僕をお外へ出すの。」

「チュンチュン。かわいそう」

「でもおじさんが帰るとね。ハンバーグを食べに行けるんだ。」

「チュンチュン。きみはハンバーグが好きなの?」

「うん。ママの次に好きだよ。」

「チュンチュン。それは良かったね。」

「でも……。そこでお酒を飲むママは好きじゃないんだ。」

「チュンチュン。そうなんだ。」


「雀さん達は仲良しなんだね?」

「チュンチュン。僕達は兄弟なんだ。」

「きょうだい?」

「チュンチュン。そう。一緒に住んでいるんだよ。」

「ぼくには判らない。」

 すると雀の兄弟は一羽ずつ自己紹介をしました。


「チュンチュン。ぼくは一番上のお兄ちゃんなんだよ」

 頭の上が黒い雀が言いました。

「チュンチュン。僕が二番目のお兄ちゃんだよ」

 羽の先が黒い雀が言いました。

「チュンチュン。私はお姉ちゃんよ」

 頬が白い雀が言いました。

「チュンチュン。僕は一番下なんだ」

 全身が白い雀がいいました。


「みんなは何をしているの?」

 雀の兄弟へ聞きました。


「チュンチュン。今は日向ぼっこ。すごく暖かいんだ。」

 一番上の雀が答えました。

「へぇ。その後はどうするの?」

「チュンチュン。いつもは鬼ごっこやかくれんぼをするのよ」

 お姉さん雀がいいました。

「楽しそう。ぼくはね、一人の時はお外で遊べないの。」

「チュンチュン。どうして?」

 一番下の白い雀が聞きました。

「知らない怖いおじさんにつれて行かれるから」

「チュンチュン。でも今日はだいじょうぶ。一緒に遊ぼうよ。」

 二番目のお兄ちゃん雀が誘いました。


 母親が寝ているのを見て「良いの?」と聞きました。

「チュンチュン。良いよ。何して遊ぶ?」

「ぼくね、かけっこが好きなの。」

「チュンチュン。かけっこ?どんな遊び?」

 一番上の雀が聞きました。

「みんなで走って、誰が早いか決めるの」

「チュンチュン。きみは早いの?」

「うん。パパよりも早いんだ。」

 得意気に言いました。

「チュンチュン。すごいのね。」

 お姉ちゃん雀は褒めました。

「チュンチュン。でもきみにお父さんはいないんでしょ?」

「前はいたの。よく遊んでくれたんだ。」

「チュンチュン。その時かけっこをしたの?」

「うん。いつもぼくのほうがはいの」

「チュンチュン。僕も飛ぶのは早いよ」

 一番下の白い雀が言いました。

「チュンチュン。僕の方が早いに決まっているさ!」

 一番上の雀が言いました。

「それじゃかけっこすれば良いよ。」

 喧嘩をする二人へ言いました。

「チュンチュン。そうしよう」


 隣の家の玄関からアパートまで、誰が早いか競争します。

「道路でね。かけっこをしたらいけないんだよ。」

「僕達は飛んで、かけっこをするから大丈夫だよ。」

 二番目のお兄ちゃん雀が言いました。


「いいかい?」

 雀の兄弟が隣の家の玄関先に並ぶと、子供は聞きました。

「チュンチュン。いつでも良いよ」

 一番上の雀が答えました。


「では。位置に付いて、ようい――ドン!」

 子供は手を大きく振っておろしました。


 雀の兄弟は一斉に飛び立ちました。

 やはり一番上の雀が早かった。

 次が二番目で、その次がお姉ちゃん雀。

 白い一番下の雀が一番遅い。


 三羽が路地を通り過ぎた時、路地からトラックが出てきました。

 白い雀は避けきれずトラックにぶつかってしましました。


 雀の兄弟と子供は急いでそこに戻りました。

 しかし白い雀は道路に落ちて車輪に轢かれ、死んでいました。

 ぺちゃんこに潰れ四方に飛び散った弟を見ました。

 雀の兄弟は泣きました。


 子供は言いました。

「ぼくもね。ここで自動車にぶつかったの――。」






       母親



「おい!」

 一人遊びをしている息子を呼びました。

「なあに?」

 呼ばれると、遊んでいた手を止め母親の元へ行きました。

「いつまで起きてんだ!七時過ぎたら寝ろと言ってんだろ!」

「ぼくね。お腹が空いて……」

「だったら水飲め!腹いっぱい飲んでさっさと寝ちまえ!」

 息子は下を向き、今にも泣き出しそうです。

「早く飲めよ!」

 息子の髪の毛を掴むと、台所の蛇口まで引っ張ってゆきました。

「飲んだら寝ろ!」

 母親はそう息子へ吐き捨てると、居間へ戻りました。

 息子は仕方なく椅子を動かし登ると、コップを手に取りました。

 蛇口を開き、水をコップに入れゴクゴクと飲みました。

 でもお腹は一杯にはなりません。

 もう一杯水を飲みました。

 やっぱりお腹は空いたままでした。

「どうだ。腹いっぱいになっただろ!」

 コップを戻し椅子から降りると、母親が言いました。

 しかし息子は下を向いたまま首を横に振りました。

「ふざけるな!」

 母親は手元に有った雑誌を丸め、息子へ投げ付けました。

 雑誌は息子のおでこに当り、少し切れて血がでました。

「だれのせいで、メシが喰えないと思ってんだよ!」

 母親は息子の怪我にも動じずに罵りました。

 息子は、おでこの痛さと、悲しい気持ちで泣き出しました。

「うるさい!」

 母親は怒鳴ると息子の脇へ行き殴りました。

 息子は耐え切れず倒れました。まだ泣いています。

「お前がいるから、働けないんだろうが!」

 そう言って倒れている息子を蹴りました。

「お前を預ける所が無いから、ひもじい思いをしているんだろ!」

「ゴメンナサイ!」

 叩かれながら、息子は一生懸命に謝りました。

 ドンドンと壁を叩く音が聞こえました。

 すると母親は手を止めました。

「お前なんか……。産むんじゃなかったよ!」

 母親はそう言って居間へ戻りました。

 息子は涙をボロボロと零しましたが声は出しません。

 お腹とおでこを抑えながら這って蒲団に入りました。

 まだ涙は止まりません。次から次へと零れました。


 息子は。さっき飲んだ水が目から出てくるのだと思いました。


 次の朝、起きるとすぐに水を飲みました。

 お腹いっぱいになるまで水を飲むと蒲団に戻り遊びます。

 おもちゃが無いので指で遊びます。

 声を出すと叱られるので心の中で話します。



 そんな遊びを、一年近く続けていました。


 一年前、この家にはお父さんがいました。

 お父さんがいた時は、ご飯を食べる事ができました。

 お父さんと外で遊ぶ事もありました。

 お父さんとのかけっこが大好きでした。

 おもちゃや絵本も有りました。

 優しいお母さんもいました。



 息子が四歳の頃、お父さんとお母さんは良く喧嘩をしました。

 お父さんは家にいても遊んでくれなくなりました。

 お父さんが外へ出ると、知らないおじさんが来ます。

 知らないおじさんは、パンやお菓子を持ってきてくれます。

 でもお母さんと蒲団に入るとお母さんを泣かせます。

 お母さんが泣くので、息子は心配でずっと蒲団の横にいます。

 ある日おじさんは、息子が鬱陶しくなって外へ追い出しました。

 それ以降、おじさんが来る度、息子は一人外で過ごしました。


 おじさんが帰るのを見ると、息子は急いで家に入ります。

 お母さんの所へゆくと、お母さんに抱きつきました。

 お母さんはご飯を作ってくれました。

 息子は母親が作ったご飯を「いおしいね」と言って食べました。


 息子が五歳になる頃から、お父さんは帰って来なくなりました。

 知らないおじさんも来なくなりました。

 お母さんはほとんど毎日泣いていました。

 息子はお母さんと二人だけになりました。


 ある日、お母さんに連れられて保育園という所へゆきました。

 息子はお友達がたくさんいるので喜びました。

 しかしそこは見ただけで帰りました。

 入るのに順番があると聞ききました。

 帰りに違う所へ行きました。

 しかしそこにも順番があると言われました。


 順番が来るまで、お母さんは働く事が出来なくなりました。

 息子を預かってくれて働ける所も探しました。

 でもそういう所は仕事の空きが無く諦めました。


 それからは。朝とお昼のご飯が無くなりました。

 家の中の物も少しずつ無くなりました。

 テレビがなくなると、夜のご飯も二日に一回だけになりました。

 二人は水を飲んで我慢しました。


 電話が鳴ると、お母さんは夜中に一人で出かけます。

 でも朝にはお酒の臭いをさせて寝ています。

 夜になるとハンバーグを食べに連れて行ってくれます。

 息子は電話が鳴ると、半分嬉しく、半分寂しくなりました。




 ある日の夜。公園で遊んでいると、おじさんがきました。

 息子は連れていかれました。

 息子は怖くて泣きました。

 別の知らないおじさんとおばさんがきました。


「お名前は?」

 息子は泣いています。

「いくつかな?」

 泣き声が大きくなりました。

「お菓子食べる?」

 おばさんはアメをくれました。

 息子は美味しそうに食べました。

「お名前は?」

 べそをかきながら首を横に振ります。

「いくつかな?」

 黙って首を横に振ります。

「お家は?」

「あっち」

 初めて返事をしました。

「公園まで行けば、お家はわかる?」

「うん」

 大きく頷きました。


 アメをくれたおばさんが、公園まで送ってくれました。

「ここから帰れる?」

「うん。バイバイ」

 息子は走って帰ります。

 知らないおじさんと、アメのおばさんが後を付けます。


「暗くなったら外へ行くなと言っただろ!」

 母親は息子を叩きました。

「お母さんですか?」

「あんたら。誰!」

「警察です。少年課の者です。」

「何の用よ!」

「お子さんを虐待していませんか?」

「躾だよ!他人に言われる筋合いは無いよ!」

「そうは行きません。夜中にこんな小さな子を外へ出すなど」

「仕方ないだろ!働かなければ生きて行けないんだよ!」

「保育園とか――」

「待機が多すぎて順番待てとさ。」

「しかし夜中に子供を一人にするのは――」

「順番待ちでまともに働けない。飢え死にしろっていうのかよ!」

「いえ――。生活保護は?」

「申請に行ったよ。でもな、働けるのに働かないから駄目だとさ」

 母親は悔しそうです。

「住んでいる家賃も高いってさ。たかだか一万三千円が贅沢だとよ」

「だからと言って、子供が犠牲に――」

「誰が好き好んでそんな事するかよ!」

 母親の目に涙が見えました。

「ご主人から教育費を貰ったらどうです。」

「私が男を作って旦那は出たんだ。慰謝料の請求なんか――」

 母親は唇を噛んで、後の言葉は聞けません。

「それなら――」

「そうだ。あんたの所で、預かってくれよ。そうしたら昼間働ける」

「あのですね。」

「そうしたら生活保護も貰える。週五日九時四時でいいからさ」

 母親は真剣に言いました。

「規則でそれは――」おばさんは苦しそうに答えました。

「だったら黙って帰れ!警察のくせに、何の役にも立たない!」

 母親は息子の手を引いて自室に入りました。


 翌日の朝、菓子パンとジュースがご飯でした。

 何日振りかに食べ物を口にできました。

 お昼は水を飲み我慢しました。

 でも夕飯はハンバーグを食べにゆきました。

 息子は美味しそうにニコニコしながら、ハンバーグを食べました。

 母親はお酒を飲みました。

 二本目が無くなると、大声で何かを叫びだしました。

 息子はそんな母親が少し嫌いです。


 次の日から、また水だけになりました。

 息子は蒲団の中で、一人遊びをして日を過ごします。

 電話の鳴るのが待ち遠しく。



 昨日のおでこの怪我はまだ痛みました。

 お腹が空いて悲しくて蒲団の中で涙が出ました。

 声は出さずに。一人遊びをしながら静かに泣きました。


 しかしその日は朝から電話が鳴りました。

「今日は夕方から出かけるから。一人でいるんだよ。」

 息子は大きく頷きました。

「遠くへ行ったり、道路で遊んだりはだめだよ。わかったかい?」

 息子は大きく頷きました。

「明日はハンバーグだから。暗くなったら家にいるんだ。いいね。」

 息子は再び大きく頷きました。

「パンを買って帰るからね」と母親は出掛けて行きました。

 息子は明日のハンバーグが楽しみで、しかたありません。

 自宅の路地の向こう側で、母の帰りをしゃがんで待ちます。


 夕暮れ時。大分、陽が落ち辺りは薄暗くなりました。

「暗くなったからお家にいよう」

 息子は走って家に戻りました。

 いつもは飛び出したりしない路地を飛び出しました。



 息子は小さな四角い木箱の中の、白い壷の中に入りました。

 写真の息子は笑っています。

 まだお父さんがいた頃の、たった一枚残った笑顔の写真です。

 お母さんはその写真を抱いて泣いています。

 大きな声を出して泣いています。


 もう。

 苛苛している時に暴力をふるい憂さを晴らす事ができません。

 言う事を聞かないときに物を投げ付ける事ができません。

 無理に水を飲ませる事もなくなりました。

 暴言を浴びせ悲しませる事もなくなりました。

 何より、面倒な息子の世話をする事が一切無くなりました。


 しかし――。

 部屋から笑い声が消えました。

 上手くない手料理を、美味しいと言って食べてもらえません。

 公園で楽しそうに走り回る姿を見る事もできません。

 嫌な仕事の後に、一緒にハンバーグを食べる事もできません。

 『ママ』と呼ばれ、抱き付かれる事もありません。

 一緒にお風呂に入る事ができません。

 一緒の蒲団で寝る事もでません。

 『大きくなったら――』の夢を聞く事もできません。

 息子の温もりを直に感じる事ができません。

 息子と自分の笑顔を見る事もできません。

 小さな手を繋ぐ事もできません。

 何より、愛しい息子の世話をする事が一切無くなりました。


「――ちゃん。一人にして、ごめんね。」



 母親はなきながら、息子の事を思い返します。



 大きな声で叱ったり叩いたりした事を思い出します。

 物を投げ怪我を負わせた事を思い出します。

 食事を与えられず何日も水で我慢させた事を思い出します。

 辛い言葉を浴びせて悲しませた事を思い出します。



 笑顔を見たのはいつだったか。

 お風呂に入ったのはいつだったか。

 ちゃんと話しをしたのはいつだったか。

 頭を撫ぜたのはいつだったか。

 抱っこしたのは、ハグをしたのはいつだったか。

 ママと呼ばれたのはいつだったか。

 笑い声を聞いたのはいつだったか。

 一緒に遊んだのはいつだったか

 写真を撮ったのはいつだったか

 息子の名を呼んだのはいつだったか



 母親は。

 思い出せない事の方が多い事に気が付きました。

 写真を抱いて大声でなきました。

 やがて泣きつかれ、寝てしまいしました。


 母親は子供の遺影を抱きしめ寝ています。






       隣人



『お前がいるから、働けないんだろうが!』

(また始まった――)

 夕餉(ゆうげ)の支度に台所へ入った途端、壁を抜けて大声が隣人を襲う。

『ゴメンナサイ!』

 母親の罵声のあとから、子供が必死に謝る声が聞こえる。

『お前を預ける所が無いから、ひもじい思いをしているんだろ!』

 恐らく暴力をふるっているのであろう。

 鈍い音の後に、乾いて軽い音だけが幾度も続いて聞こえる。

『ゴメンナサイ!』

 その音が聞こえている間、子供の謝罪の言葉が続いた。

 聞くに堪えず壁を叩く。


 音と罵声と謝罪が止んだ。

 隣人はホッとして夕餉の支度に入った。


 各駅停車しか停まらないが駅から近くにこのアパートはあった。

 小さいながらも商店街があり病院も有る。

 バスとトイレが付いているのに家賃が安い。

 しかし安普請の所為か壁は思いの他薄かった。

 足音やテレビの音は元より、話し声や溜息までも漏れ聞こえた。



 あれはいつだったか、隣人親子が出かけた夕方の事。

 隣のドアを叩く音が聞こえた。

「こんにちは」

 男と女がドアを叩き室内へ声を掛ける。

「こんにちは――。」

 隣人は関りたく無かった。

 しかしこのままでは、十分後に始まるドラマの邪魔をされる。

 仕方無しに自室のドアを開けた。

「おとなりは先程出かけましたよ。」

「すみません。警察の者ですが、少しお話しをお聞きしたいのです」

 隣人は『失敗した』と咄嗟に思った。

「お隣の――」

「私には関係は無いので――」

 そう言うと急ぎドアを閉めようとした。

 刑事の動きは俊敏に、閉ざされる扉の隙間を狙って足が入った。

「そう言わずに、ご協力いただけませんか」

 刑事の足は隣人の意に反して、土足で入って来た。

「でも。知らない物は――」

「知っていて隠すのは。犯罪ですよ」

 刑事の脅しにも似た、強制的な命令(ことば)が隣人を強張らせた。

「犯罪って――!私は何も知りません!」

 隣人は刑事の脅しに屈せずにドアを閉めようとした。

「すみません。相棒の刑事は若過ぎて」

 年長の女刑事が言う。

「近くに来たので寄ったのです。先日は夜中でお話しが聞けなくて」

 隣人は抵抗を諦めて力を抜いた。


「お隣さんですが、子供に対して体罰を行っていませんでしたか?」

 ストレートに質問を投じた。

「……」

 しかし隣人は重たい口を開こうとはしない。

「息子さん。痩せていましたよね。それにお風呂にも入って――」

「貴方達みたいに、安定した収入がある人にはわかりませんよ。」

 隣人は視線を余所へ向けて刑事を批判し、隣人親子を擁護した。

「お隣は、以前は子煩悩で、仲睦まじい家族でしたよ。」

 その言葉に「では何故?」と質問を返した。

「一年ほど前……だったわね」隣人は重そうな口を開けた。


「ブラック企業と言う言葉が表面に出たのが不運の始まりよ」

 静かに切り出した。

「当時は仲の良い夫婦でした。旦那も子煩悩で、愛妻家で――」

 隣人は遠い目をした。

「しかし唐突にリストラに合ってね。」

 遠い目を刑事へ向けた。

「旦那さんは暫くハローワークへ通っていたようだけど」

「転職は難しかったでしょうね」

「そうなのよ。それで旦那が自宅にいることが多くなって」

 隣人は『知らない』割には細部まで良く話す。

「暫くは貯金を切り崩していた様だけど、それも底を着いた頃――」

 隣人は組んだ腕の右手の人差し指を顎に当てた。

「奥さんがパートに出て、その間、息子さんは旦那が見ていたわ。」

 隣人は話しの合間合間でポーズを変えた。

「奥さんの仕事先の方が何度か見えて、いつの間にか――」

「所謂、男女の仲。ですか?」

「そうよ。それが旦那にばれて、旦那は一人で出て行ったのよ。」

 女刑事が隣人の顔に見入った。


「私はお隣さんの事、余り好きじゃないからな言うけど。」

 隣の部屋のドアを見て続ける。

「旦那が失職した頃は、彼女は朝から晩まで。一生懸命に働いたわ。」

 意外な証言に両刑事は戸惑った。

「きっと息抜きで道が逸れたのよ。」

 刑事と話し初めて七分が経った。

「しかし最終的には、奥さんが男を作ったのですよね」

「あんた。独身でしょ。所帯持ちにはそれなりの事情があるのよ」

 窘められた男の刑事には、その言葉の意味は当然判らない。


「貴方が最初に聞いた体罰も、決して彼女だけの所為では無いわ。」

「どういうことですか?」

「行政はお役所仕事なの。」

 二人の刑事は首を傾げる。

「見るのは提出する書類だけ。けっして現実を見ようとしない。」

 隣人は何度も大きく首を横に振った。

「現実とは?」

「今、生きている社会とその仕組みじゃない。」

 隣人は憤慨し言うが、若い男の刑事が困惑の顔をした。

「子供に、日に三度の食事をさせたいのに、それができない現実」

 女の刑事に向き詰め寄る。

「お隣さんの様な母子家庭の親が、働けるようになっていない現実」

 意味が判らないと露骨な顔を向ける若い刑事。

「待機児童が多すぎて、子供を預けられない現実」

 二人の刑事は苦虫を潰したような顔になった。

「毎日お風呂に入れない現実。貧富の差でいじめられる現実」

 二人の刑事は後退りをする。

「やっと生きている者からも、生活費より先に税を徴収する現実」

「わっ、わかりました。しかし私達が知りたいのは――」

「そうやって他人事には我関せず的に逃げるのが役人!」

「そんな事はありませんよ。」

「だったら働きに出られない親は、どうやって子供を育てるの?」

「それは生活保護や行政が――」

「あんた。全然判っていないじゃない!」

「えっ?」

「それが成り立っていないから、お隣さんが貧窮しているのよ」

 若い刑事へ詰め寄る。

「だから水を飲んで飢えに耐えて、細々とやっと息をしているの!」

「であれば親を頼れば――」

「親がいない人は?」

「そっ、それは――」

「所詮貴方達刑事も役人よ。国に保護して貰える側の人間なのよ。」

 若い男の刑事には、隣人の声は変わらず届かない。

「政治家と役人が作ったんじゃないの。この現実を!」

「それは直接我々に関係は――」

 隣人の目が大きく見開いた。そして静かに閉じ長い溜息を吐いた。

「あらいけない。観たいドラマが始まっているわ。」

 そう言いながら隣人は急いでドアを閉めた。
























 所詮この国は政治家と役人の物。

 彼等の腹が痛まないようにできている。


 彼等に少しの良心があったなら

 せめて彼等の驕りが消えたなら

 彼等に誠実という文字があったなら

 若い担い手が育つだろうか。


 彼等に少しの勇気があったなら

 せめて彼等の保身がきえたなら

 彼等に慈愛という文字があったなら

 国に子供が増えるだろうか。


 彼等に少しの先見があったなら

 せめて彼等の私欲がきえたなら

 彼等に懺悔という文字があったなら

 民の愁えが消えるだろうか。


 彼等に少しの羞恥があったなら

 せめて彼等の高慢がきえたなら

 彼等に奉仕という文字があったなら

 国は安寧になるだろうか。


 もしこの世が彼等の物でなかったら

 民の選択肢から自殺の文字は消えるだろうか











平成二十九年三月十八日から五月二十七


作者は小学五年生の時に、初めて物語らしき物を書きました。確か、少年と飼い犬の話だったと思います。

 飼い犬が死ぬ間際に、少年と話しをする――。子供らしくない内容だったと記憶しています。

本編は始め、今まで書いた事が無かった、童話を書くつもりで、四羽の雀の兄弟を主人公に書き初めました。一ページで終る。とても短いものでした。

短すぎて男の子を登場させると、主人公は男の子に代わり、童話が別物になりました。次は男の子の母親に主人公が代わり、そして隣人に。最後に運転手。作者には、ひとつの話しにまとめる力が無く。四篇のオムニバスとなりました。


 隣人の章を書いているうちに、隣人の本音が親子の事ではなく、自分の境遇だと判ったために。待機児童を減らす目的が判り難くなりそうで、その一部を割愛しました。

刑事との問答で最後の方の一節です。隣人の訴えを最後に帰します。



「親がいない人は?」

「それでしたら、お宅が預かって――」

 若い刑事がこれぞ解決策。とばかりに言った。

「何、馬鹿な事。私はこの歳になっても働かなければならないの」

 若い刑事は隣人を改めて見る。

 若作りだが、恐らく自分の両親よりはるかに歳上だと思った。

「年金受給の年齢はどんどん上がる。年寄りも必死に働かなければ」

「必死――ですか?」

「そう死活問題。他人の世話などやいている暇もお金も無いの!」

 目は完全に怒っている。

「生活保護も出ない。年金の額も減る。でも税金は徴収される。」

 言いながら地団駄を踏む。

「年寄りは死ぬまで働けと国は言うのよ。政治家と役人の為に!」

 隣人の目は怒りに満ちていた。

「お隣の様な母子家庭や、私の様な独居老人はね」

 冷めた視線を若い刑事へ向ける。

「お金と命を、死なない程度に搾り取られるのよ。」

 隣人は何か言いたげな若い刑事を無視して続ける。

「私達は国に足枷を嵌められた奴隷よ。」

「それはちょっと偏見かと――」

「何が偏見よ!政治家と役人が作ったんじゃないの。この現実を!」

「そっ、それは――」


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