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十六時までの契約だった仕事は、交通事情により二十分ほどオーバーしていた。時間的余裕を大きく見積もりすぎて、長めの休憩を取ったせいでもある。
それでサイン伝票の終始時刻欄に、どう書くか。
そこら辺の微妙なことは、派遣された者の判断に委ねられている。雇用者側との交渉が面倒だと思えば端から書かないし、そこは割り切って、拘束時間をきっちりと申告する者もいる。
梅本は考えなしに十六時00分と書いて、サインを貰った。
それから少しだけ歓談した後、社長と鳴子に「また呼んでください」と愛敬を振りまいて、早々に辞去していた。
バイクの傍らで一旦はスマホを取り出したが、時刻だけ見てポケットにしまった。
営業職でなくなってからというもの、梅本の中に(十七時)という区切りの感覚が芽生えていて、夕方の五時前に仕事が終わることに、恥にも似た感覚ができあがっていた。
仕事が終わって気が緩んだのか、両肩から太ももが、つまり全身が妙に怠い。複合的にどうにも竹本へ電話する気になれなかった。
梅本はどこへも寄らずにマンションへ帰り、玄関先で服を脱ぎ捨てた。裸のまま洗濯場へ行くわけにはいかないが、ベタつく肌に着るものもない。
部屋を冷やすボタンを押して、まずはシャワーを浴びた。心地良い温水が汗やタイヤの黒を洗っていく。時折、膝がビクビクと上下する。もちろん喜んでいるわけでなく、限界が近いことを報せてきているのだ。
三十歳なんて、まだまだ若者の範疇といえるはず。梅本個人の筋肉の限界値が、低く設定されているにすぎない。
――走り込みでもするか。
そう思って、すぐに打ち消した。そんなこと俺がやるわけないだろ、ともう一人の自分が言っていた。
外はまだムッとする空気に覆われている。それをすっかり忘れ去ることができる部屋で、梅本は熱いコーヒーを淹れた。
必要以上に冷やした部屋で、毛布を被って眠る。これが夏の贅沢。対して冬の贅沢は、暖房の効いた部屋でアイスを食うこと。……そんなしみったれたことを、誰かが言っていたな、と思い出していた。梅本の今は、まさにそれを体現しているかのようだった。
コーヒーをひと口ひと口ゆっくりとすすり、飲み終える頃には、体が予想以上に冷えてきた。これから竹本に電話して晩飯を食いに出掛けるのだから、とエアコンの設定温度を元の数値に戻した。
ベッドの縁を背にしてスマホを眺めていると、眠気に襲ってくるようだ。電話一本入れるだけのことが、何だか邪魔くさくなってくる。
そうして、うつらうつらとしているうちに六時を回り、六時半を回り、スマホの着信音に起こされた。竹本からだ。
(よぉ。終わった?)
「今家に着いたところ」と返事をしていた。そしてさっそく会う約束をした。
電話で指定された店が、偶然にも陣内の妹夫婦が営んでいるあの(たがわ)だった。前は閉店後に入ったので、店のシステムや雰囲気は知らない。竹本が常連なのかどうかは訊かなかった。
「地下の店で、入り口がわかりにくいんだけどさ」
さらに詳しく説明しようとする竹本を遮って、梅本は「おう大丈夫だ。そこ、行ったことがあるよ」
そう言って電話を切って立ち上がったものの、また面倒くさいという気持ちがぶり返してくる。着ていく服に乏しい。ここへ呼ぶという手があったな、と梅本は腹が鳴るまでノロノロとしていた。
約束は七時半。奢ってくれるという確約はなしだ。
竹本と晩飯とくれば、必ず酒が入る。あの店を指定してきたのなら間違いないだろう。なので、マンションからは徒歩で行く。駅の連絡橋を越えてすぐの商店通り。その中ほどまでだから、ここからだと十五分くらいか。
すでにシャッターの下りた店舗を横目に、花川が置いて(忘れて?)いった団扇片手に歩いていく。
出で立ちはポロシャツに、下はジャージ。竹本と飯を食うのに気取る必要はないと思った。貰い火で焼け出された話をする前フリにもなって、ちょうどいいくらいだ。ポケットには千円札が一枚。念のために財布は部屋に置いてきた。
地下への階段を下って左手の重厚な扉。(たがわ)のプレートを見ながら開いた。
目隠しの衝立から顔を覗かせると、ちょうど女将さんが一番手前の席で接客をしていた。たしか美咲さんといったか……。
美咲さんは「いらっしゃいませ」と静かに言った後、あらっと目を瞬いた。「兄貴んところの……」
彼女は、梅本を陣内不動産の新人か何かだと思っているらしい。
「えっと、違うんですけど……」
咄嗟に口をついて出たが、誤解を解いておく必要性を感じない。
「こないだは閉店後に押しかけて、すんませんでした」
「あぁ、やっぱり合ってた」半信半疑だったようだ。「――いらっしゃい。いいのよ。どうせ兄貴が無理やり付きあわせたんでしょ」
それは間違っていない。
「お~い、梅本ぉ。こっちだ」
一番奥の四人掛けから声がかかって、梅本は指差して彼女へはにかんでみせた。「あれと待ち合わせなんですよ」と同時に、その席を見て眉を寄せた。「あらそうなの。じゃぁごゆっくりどうぞ」に、また笑顔に戻って会釈する。ずんずんと奥へ行った。
竹本と同じテーブルに着いていたのは、松本と笹尾だった。竹本の隣しか開いてないので、そこへ腰を下ろす。正面は笹尾だ。三人はスーツ姿で会社からそのまま来たという感じだった。梅本は自分の恰好に早くも後悔し始めていた。
「なんだ、お前らも一緒だったのか?」竹本をジロリと見やる。
「そうなんですよ。梅本さん、お久しぶりです。あ、図書館の前でも会いましたよね」
彼女はちらりと、松本に同意を求める視線を送った。梅本はうなずきを返しながら、コンビニや会社店舗の前でも会っているけどね、と思った。
「飲み屋で僕ら三人が一緒になるのって久しぶりだよね」と松本。
「あれ、もしかして、私って邪魔?」
「そんなふうには言ってないだろ」
笹尾の言葉遣いに、一度は克服したはずの嫉妬心がチクリと梅本の胸を刺した。




