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就業ルイン  作者: ゆぞぅ
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「チクショウ! あのツバ女ぁ!」

 腕を振り上げ、声に出して罵った。

 さっきまで静かにしていた蝉が一斉に鳴き始める。

 梅本はハッとして、何か(ぬぐ)う物はないか、と辺りを見回す。ティッシュらしき物といえば、作業着を買ったときのレシートくらいか。あの男から差し出された万札で拭い、くしゃくしゃにして突き返せば恰好もついたのかもしれないが、ポツンと一人残された今、その矜持の高さを判定する者がいない。なので、しかたなく二万円は財布へしまった。指で拭い、社長の背広に擦り付けるという手もアリだったか、と今さらながら思いついた。が、本当に今さらながらだ。

 財布をポケットへ戻した時点で、梅本の怒りは五割方が収まっている。二万円の威力は人それぞれだろう。まさに現金だとしか言いようはないが……。

 梅本はレシートを抜き出し、少し曲げて汚物をこそげ取った。それを捨てようとして、ふと思いついた。胸ポケットからスマホを取り出した。


「よぉ俺々、オレオレ詐欺だけど。今大丈夫か?」

(何だよ梅本。お前が電話を寄こすなんて、珍しいこともあるもんだな。あいにくと今週はずっと忙しくて、飲みには行けないぜ)

「べつに誘ってねぇよ。たとえ二万円ほど臨時収入があったとしても、竹本なんかには奢らねぇよ」

(じゃあ何の用だよ)

 雑音が耳につき、盲人用信号のメロディーが微かに聞こえてくる。


「いやぁ、今さっき道端で、蝦夷松のクソ女と出くわしちまってよ」

(へえ、部長と? そういえば今日はまだ見てないな。まぁ、俺が出社してすぐに外回りへ出たからなんだけどな)

「社長も一緒だったぞ。二人ともスーツ姿だったから、仕事だろ。そんなことより、おい、聞いてくれよ」

(何だよ?)

「なんか怒らせちゃったみたいでさ。あいつ、去り際に、唾を吐きかけていきやがったんだよ。あのクソ女、相変わらずなんだな、まったく。こっちはもう部下でも何でもないってのにだぜ。あれこれと嫌なことを思い出しちまったじゃねぇか」

(はぁ――お前なぁ。あいつを怒らせると、帰ってから俺たちに八つ当たりっていうか、シワ寄せが来るだろうがよ。もう、勘弁しろよ。――それで? そんなことで電話してきたのかよ)

「おぉそれでよ。この蝦夷松の吐いた唾を誰か買わねぇかな、と思いついてな」

 見てくれだけは抜群に良い小枝の汁だけに、彼女に心酔する変態野郎にとって、これは貴重なはず。吐きかけられることじたいが、きっとご褒美だったに違いない。

 梅本の記憶に、小枝の口紅がついた煙草の吸殻を凝視して、ひとり時間を止めていた奴が思い起こされた。


「たしか俺たちより五年くらい先輩で、蝦夷松を崇拝してた人がいたろ? あの人、何て名前だったっけな」

 これは竹本にそうとうウケた。

 竹本はひとしきり笑った後、周囲から白い目で見られたのか、咳払いして声のトーンを落として言った。

(渋沢さんだろ。あの人、何か月前だったか退職したぜ)

「なんだ、そうなんかよ。相変わらず出入りの激しい会社だな。で、連絡はつかねぇの?」

(そりゃつくけど……。いやいや、たしかに渋沢さんならって、俺も思うけどな。さすがにそれが部長の唾だって証明できなきゃ、あの人も金は出さねぇだろ)

「あ、そうか。そりゃそうだな。スマホで撮影しときゃよかったかな」

(それにしても梅本、お前がそこまで金欠だったとはな。あんまり可哀相だから、また近いうちに奢ってやるよ)

「同情するなら銭をくれってやつだ。おう、こっちはいつでも都合がつくぜ」

 梅本は電話を切った。溜飲が下がっていく。冗談めかしたものでも愚痴を聞いてもらうと、その効果は覿面(てきめん)だった。苦楽を共にした友人は、会わなくなったからといっても、完全に切るべきではない。


 梅本は、作業着でパンパンに膨らんだリュックを背負い直すと、バイクにまたがった。

 アパート探しは焦らなくていい。これから藤木の所へ顔を出して、衣装ケースのお礼方々、バイクにキャリアを装着してもらおうと思った。


 発進してすぐに、スマホが震えたような気がした。

 走行中、着信音は聞こえないし、バイクの振動と混同することは間々ある。本当に電話が鳴ったとすると誰からだろうと考え、パッと花川の顔が浮かんだので、気恥しくなった。

 バス停の窪みにバイクを寄せて、胸ポケットからスマホを取り出した。画面にはカンネスサービスと出ている。二分前だ。


(はい、カンネスサービスです)

 梅本がすぐに折り返すと、じっくりと話したことのない社員が出た。

「おつかれさまです。三五二四の梅本です。今電話を貰いましたけど、何だったでしょうか」

(おつかれさまです。ちょっと待ってください。――お~い、今誰か梅本って人に電話したぁ?)

――たぶん、所長のすぐ前のデスクのやつだな。保留ボタンくらい押せよ。


 保留音が一瞬だけ鳴って、すぐにまた切り替わった。

(梅本さん?)

 やはり花川だった。

(仕事だけど、もう明日からは行けるの?)

「あぁ行く。あるときに稼いでおかないとな」

「そうだよね。じゃ、(わく)入れるわ。明日の七時、十六時でお願いね」

「だから、まず仕事内容と時給を教えろって。――あっと、作業服を新調したばっかだから、なるべく汚れない仕事で頼むわ」

(ふふ、たぶん大丈夫)

「ほんとかよ?」


 梅本は会社名と住所を聞き、頭に地図を思い描いた。

 市内の住所だったので、だいたいの場所は把握できたが、詳しいところは曖昧だ。今からでもカンネスの事務所へ寄って、依頼書を見せてもらうのが確実。しかし、今朝別れたばかりで花川と顔を合わせることになるのが、何となく照れくさかった。

――そこへ直接行ってみるか。案外すぐにわかるかもしれない。

 仕事内容は、ガソリンスタンドや整備場を回って、古タイヤを回収してくる仕事だそうだ。もしかして、藤木モータースへ行くことになるかも……。

 そして、絶対に汚れる仕事だ。


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