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四日分の二万六千円が消えた。
消えたも何も、まだ働いていないので損をしたわけではないが、梅本としては当てにしていただけに、痛い。
あれからロッカーの鍵のことで電話すると、森くんは明日の午前中、それも早いうちに先方へ訪問したい、ということだったので、すぐに家を出た。
「鍵を受け取りに来てくれ」と伝えればよかった。
そうと気づいたときには、すでに派遣事務所が見える所まで来てしまっていた。
テナントビルの二階へ上がり、無造作にドアを開く。
二十一時をすぎていた。事務所の中には所長と営業担当者が四名、それとどこかの現場で会った記憶のある派遣スタッフら数名が、まだ残っていた。
ついでに換金しておこうかと思って、今日の分のサイン伝票は持ってきている。しかし、カウンターから一番近い席にいた花川は、大袈裟に困惑した表情をつくって、もう金庫を閉めたので、明日以降にしてくれ、と言うのだった。
「だいたいいつも七時には閉めるから、それまでに来てよね」花川は小さな声で付け加えた。「あぁ早く帰りたい」
「あぁそうだっけ?」
「そうなってるのよ」
カウンター越しに森くんの姿を探すと、彼は奥のほうでパソコンを操作していた。同時に電話中だった。交代要員が見つからないのか、と梅本は思った。
こんな時間から、明日の昼勤スタッフを確保できるものなのだろうか? スタッフの登録数こそ五千人を超えているが、登録番号、千何番、ましてや三桁を持つスタッフに、未だかつてお目にかかったことがない。他社との掛け持ちも多いと聞く。はたして現役、実働スタッフがどれほど在籍しているのだろうか。はなはだ疑問だ。
しばらくの間、梅本はカウンターに手をついて、受話器相手に目まぐるしく表情を変える森くんを見ていた。
ふいに、花川が視界に入ってくる。彼女は腰を浮かし、梅本の二の腕にそっと手を添えてから、顔を近づけた。
そういう仕草が勘違いされる原因になっていることを、彼女自身は気づいていないのだろうか? 全くと言っていいほど彼女のことを知らないが、そんなはずはないだろう、と梅本は思う。しかし、悪い気はしていない。近頃純情な下半身も同意している。
「ところで梅本さん、チェンジなんですって?」
トラブル情報は社員みんなで共有しているらしい。
「俺をデリヘル嬢みたいに言うなよ」
「何かやらかしたの?」
それには答えず、スッと息を吸って一歩だけ後退した。
「あれまだ終わんないの?」森くんを指す。
「あぁ森くん? ちょっと訊いてきてあげる」
――そりゃどうも。
派遣日が少し先になるような依頼や、長期限定の求人の情報は、事務所内の掲示板に貼ってある。何かオイシイ仕事はないものかと眺めて、森くんを待った。
「チワスー。以前、イベント会場の設営で一緒になった人っすよね?」
先ほど彼を見て、どこかで会ったなと思っていたら、あのときだったか……。
彼は、片方の耳たぶと小鼻を、鎖で繋いでいる。細身で長身。その見た目とは裏腹に、きびきびと仕事をこなしていく姿が印象的な奴だった。
「あぁ……久しぶり。今はどこへ行ってるの?」
「旅館の布団敷きっすね。昨日の晩に旅行客とトラブってクビになっちゃいましたけど」
「何やってんだよ……」
自分もクビになったので、声は小さい。
聞くと、相手は泥酔していたそうで、敷いたばかりの布団に小便を漏らしたそうだ。それなのに、従業員が汚れた布団を持ってきやがった、と因縁をつけ、彼に土下座を強要したらしい。
――なんて理不尽なんだ。
それでなぜ、こっちがクビになるのかと尋ねたところ、
女将が従業員の対応の悪さを謝罪したから――という謎かけのような返答を貰ったらしい。
旅館のトップの頭を下げさせたから、木っ端のクビを飛ばす? 説明している彼がよくわかっていないようなので、梅本に伝わるわけがない。
「何なのそれ?」
「わかんねっす」
不思議な扇ぎで怒りを散らされてしまったのか、彼は大して気にしていない様子。梅本も所詮は他人事なので、それ以上、深く掘り下げない。
そうしているうちに、森くんがデスクを縫ってやってきた。もう勘弁してくださいよ、と言いたげな顔をしていた。
ここは一応謝っておくべきなのだろう。が、自分は悪くないという気持ちが先に立って、なかなか言葉が出てこない。ため息と顔で心情を表現しながら、黙ってロッカーの鍵を差し出すと、先に森くんが、梅本が気にしていたことを言った。
「いやぁ、上手いこと手配がつきましたよ」
梅本の替わりが見つかったということだ。
「あ、そう」
森くんのようには素直に喜べなかった。
明日から派遣される奴は、絶対に今日の自分よりも仕事が遅い。その成果を見て、梅本のほうが良かった、と梶が思ってくれて初めて溜飲が下がるというものだ。しかし、それがこちらに伝わってくるとは考えにくい。明日の夜にでも「今日の彼はどうでしたか?」なんて、梶に電話する方法はある。あまりに、いやらしすぎるか……。
梅本、梶、森くんが、それぞれに歪な不快感を味わったはず。誰も得をしていない。
忘れることに心血を注ぐ。大袈裟だな、と頭の中で誰かが囁いた。
当然、鎖の彼にはわからない会話と雰囲気なのだろう。二人の間に立って、そんな顔をしている。
用事はロッカーのことだけなので、梅本は長居せず帰ろうとした。「それじゃ、失礼します」と片手をあげた。花川に向けたつもりだったが、さっきの席に彼女の姿はなかった。




