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先ほどまで田井中は、銀縁眼鏡をかけた実直そうな男と、至極恐縮しながら話していた。
その男を西町会館の玄関口まで見送り、戻ってくると、彼は頭を掻いて照れたような笑みを梅本に向けた。手にはずっと封筒が握られている。
「会社から見舞金が貰えるなんて思わなかったな」
「(正社員は)いいっすね。田井中さんのところは、そういった規定があるんですか」
「結婚とか出産のときには、部課単位で祝儀を集めたもんだけど、こんなのは知らなかったなぁ」
田井中は梅本の横に腰を下ろすと同時に、煙草に火を点ける。
「お~い、ここ禁煙だぞ」とすぐに声がかかった。
ヘイヘイと、渋々返事をした彼は「梅本さん、外へ出ようか」と誘った。
――何で俺まで付きあわせようとするんだよ。
そう思ったが、人質ならぬ荷質を取られている身の上だ。梅本はリュックを片手に立ち上がった。
……飯を食った後、アパートに戻った梅本たちは、それぞれの部屋を丹念に発掘している。
結果、カーテンは素より布団も駄目だった。
衣装ケースが溶けたチーズのようになっていて、中の下着と靴下も全滅。先に避難させた上着と靴、それと玄関先にあった工具箱は無事だったものの、今日明日に必要な物は回収できなかった。ペットボトル貯金の小銭は拾い集めることができたが、その内のいくらかは、溶けてへばり付いたプラスティックを何とかしないと使えそうにない状態だ。
気落ちして外へ出てきた梅本を、早々と断念していた田井中と、ベッカムが出迎えた。
「それだけでも、まぁ……。俺んとこなんて何にもなかったよ。なぁベッカム」
猫の首を撫でる。
「そりゃ最悪ですね」
梅本は田井中の私服姿を見たことがない。
――あんたはいつも見ても作業服じゃないか。
「……と、その猫、田井中さんの所へも行ってんすか?」
「あ、やっぱり梅本さんの所へも?」
「ええ。ほぼ毎晩。食い物を強請るもんですから、ウインナーとかを」
「ハハ、俺んとこでも何かしら食ってくよな、お前って家で飯食わしてもらえねえの?」
いつぞやの梅本と同じ質問を投げている。
「でも、これからは夜食抜きになるんだからな」
梅本はニヤリと笑った。
ざまあみろ、とまでは思わないが、こっちのほうが悲惨な目に遭っているのだから……。
未だ状況を把握できていないベッカムが、我関せずと毛繕いをし始めた。しかし、すぐに何かを察知して、軽トラの荷台から飛び降りて逃げていった。たしかに路地の向こうから、女性が小走りにやってきていた。鈴木の婆さんの娘だ。
「すみませーん。トラックを着けたいんですけど、そちらは、まだだいぶかかりそうですか?」
この軽トラが邪魔だと言いたいらしい。
「いや、こっちはもう終わりました」田井中は答えた。「すぐに退かしますので」
「そう? すみませんね……」
娘さんは軽トラの荷台を一瞥して、収穫なし、を理解したようだ。かける言葉を探すように、曖昧な表情でうつむいた。
同情されたところで、お金が入るわけじゃない。「それじゃ」と会釈して、西町会館へ向かって出発した。
西町会館までは、車でなら三分とかからない。
三つしかない駐車枠は埋まっている。田井中は躊躇うことなく路上駐車。窓は開けっ放しなのに、梅本の降車を待って、なぜだかドアのロックだけはした。
部屋に戻ってみると、アパートの住民たち三人が、長机を挟んで声を荒げている。
「なんで自分の保険を使わないと駄目なのよ!」
「そうだよ。福留さんが賠償するのが筋ってものだよな」
責められているのは不動産屋と、もう一人は保険屋か。梅本と田井中は視線を交わして、同じ長机の端のほうへ着いた。
「失火法に(故意や重大な過失で他人に迷惑をかけた場合は、損害を賠償する義務がある)とあるのですが、重大な過失というところが認められないんですよ」
「なに言ってんだ。火元だろ? 火事を起こしたんだろ? 過失じゃねぇかよ! 本人は、まぁ……亡くなってるけど、親族にでも賠償させたらいいじゃねぇか」
保険屋はその手振りで、落ち着いてくれと言っている。
「それが、わざとじゃない場合は責任を問われない、というのが法律なんです」
「そんな馬鹿な。じゃあ、貰い火で焼け出されても、自分で何とか対処しろってことなの」
保険屋は同情するような視線を投げてから「えぇまぁ」と、うなずく。じつに弱々しい。
彼は業界経験が浅いのか、言い回しがどことなく演技っぽい。梅本の目から見ても、住人を気遣う様子は感じられなかった。
「大家様も自分の火災保険を使うことになります」
「大家がそうだから、何だって言うのよ。ねぇ皆さん、おかしいですよね!」
周囲の反応は疎らだ。
時刻は十四時になった。不動産屋が言っていた集合時間だ。
「何の責任も問われないんじゃ、火災保険に加入しておく必要はなかったじゃない」
そこで不動産屋が口をはさんだ。
「えっと、退去時にですね。皆さまには、大家に対して原状回復の義務があるんですよ」
一瞬、ポカンっと口を開けた女が噛みついた。
「原状回復って、全部燃えちゃったのよ! 何言ってんの!」
「ですから、そのときのための、保険です」
言い方が悪い。それでは、カンネスサービスの花川に(最近太ったんじゃない?)と言うようなものだ。
案の定、女は膝立ちになって、両手を机に叩きつけた。午前中ずっと泣いていたくせに、転じて怒り方は激しい。
他の住人は皆すでに集まっていた。裏の一戸建ての人も数人来ているようだった。
田井中を含め、事の成り行きを静かに見守っている人は、そんな決まりを端から知っていたのだろうか。それとも喪失感に囚われて、無気力になっているだけなのだろうか。梅本は知らなかったが、他人の荒れている姿を見ると、笑えてくる質なので、小鼻をプクッと膨らませていた。
「とにかく、調査もまだこれからですので、ここで金額云々を皆さんにお答えすることはできません」
今日のところは、この保険屋は担当者として顔を通しに来ただけのようだ。




