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男がこれをオモチャだと思っているのは明らかで、左手のスコップはさて置き、拳銃を構える梅本に対して、余裕の笑みで間合いを詰めてきている。
この男が本当に人を刺せる奴なのか否かは問題じゃない。そこまでの覚悟や度胸がなくたって、切りつけるくらいはするだろう。
梅本は刺された経験があるだけに、刺される前から苦悶の表情が先走ってしまった。
背中に突き刺さった包丁が引き抜かれるときの痛みと、そしてすぐさま肩口に入ってきたときの絶望感が、胸中に甦ってくる。経験済みだからといって慣れているはずもなく、梅本の背中がビクビクと震え、先ほどまでの平然とした態度は鳴りを潜めた。
男は悪戯に幾度もナイフを突き出して、梅本を威嚇する。
その刃先がグッと迫った瞬間、梅本は咄嗟に払いのけようとして左手を振り上げた。スカしてしまった拍子に、手からスコップがすっぽ抜けて、それが男の額に当たった。
「がっ!」と呻いて、男が怯んだ。
額の痛みに片手をあてがい堪えている。男の頬が怒りで引き攣れだした。人を馬鹿にしたような薄笑いが完全に消えた。
ゆっくりとした動作で、男はスコップを拾い上げた。何が飛んできたのかと確かめるように睨めつけ回した後、手首のスナップだけでポイッと放った。スコップはフェンスを越えて、公園内へ飛んでいった。
「痛ぇなコノ野郎。死んだぞ、テメェ」
あくまで抑えた音量だ。凄味が増した。
梅本は後退り、身を翻す。逃走を図ったが、すぐに後ろ襟をつかまれ、グイッと引き戻された。
バランスを崩した梅本は、ストンと後ろ手を地面についた。立ち上がり端、腰にすくうような角度で蹴りが入り、今度は前のめりになって手をつく。不恰好にも四つん這いのまま必死で男から距離を取り、立ち上がるときに殺意が燃え上がった。――撃ってやる。
力を込めて持ち上げた銃口の先に、男を捉えた。
ところが、一瞬の躊躇で、その手首をつかまれ体ごと引き寄せられた。凄まじい腕力だ。そしてもう一方の手にこぶしが握られ、梅本の顔面を打った。目の前が一瞬白く光る。ナイフを持ったままのこぶしだった。切ったり刺したりするつもりは、今のところないらしい。
梅本は左腕をあげた。創傷を負うことを覚悟したわけではない。本能的なガードだ。しかし、何の盾効果も発揮されず、二発目が同じところに入った。拳銃を持つ右手はつかまれたまま。その手を何とか引き抜こうとしたとき、拳銃がパッと発光した。
閑静な住宅密集地のオアシスに、銃声がタァーン! と響き渡った。
奥の家の丸い門柱灯が、派手な音をたてて砕け散ったのと、ほぼ同時だった。
男は弾かれたように腰を折り、左耳を押さえた。すぐに視線は梅本へ戻されるが、その表情は、どこかのハトがたまに食らう豆鉄砲どころの驚愕ではなかった。
「お前、それ……」
当たってはいない。しかし、男の鼓膜が破れたのかもしれなかった。
向こうではバイクの倒れた音がする。見ると、他の二人がバイクを放置して逃げていくところだった。それで目の前の男も退いてくれれば良かったのだが、この男は窮地に追い込まれると、攻撃性を増すタイプのようだ。
「があぁ!」
男が乱心して雄叫びをあげた。下方からナイフの刃先が飛んでくる。
梅本は飛び退り、それを目掛けて、今度は自分の意思で撃った。
男が半身になって転んだ。うずくまり、左太ももを両手で圧迫している。
すぐ横の住宅の二階に明かりが灯った。
梅本は急遽反転してフェンス沿いに逃走した。背後で「があぁ!」と叫び声があがる。
――アヒルかよ。
胸ポケットの缶コーヒーが、トプンットプンッと別のリズムで揺れている。
この拳銃をすぐにでも手放したかったが、この場に残していくという選択は論外なので、梅本はバイクへと猛走しながら、ウエストポーチにしまった。
梅本はZ125にたどり着くや否や、バックミラーに掛けてあったヘルメットを被り、グローブを取る。焦りで指が上手く通らない。そのもどかしさから断念して、ぞんざいにポケットへ突っ込んだ。
エンジンを始動する。そしてすぐにバイクを発進させた。前輪がフワリと浮き上がった。後ろブレーキをチョンチョンと踏み込んで、何とかコントロールしながら、その場から離脱した。
しかし、少し走っただけで、ガードレールに行く手を阻まれた。
方角的にまっすぐ行きたいところだが、その向こうは河川だった。左右どちらを向いても、遠く同じような距離に橋が架かっている。
この風景に見覚えがあって、梅本はここがどこら辺かをだいたいで把握した。頭に大まかな周辺地図を描いた。ここからなら左方に見える橋を渡るのがいい。すぐにバイパス道路へ合流できるはずだ。
左折して行くということは、先ほどの公園に近づいてしまうが、とにかく留まっていることが良くないと思った。バイクの音も紛れるような大通りへ一刻も早く出たい、という思いが何よりも先に立った。
河川沿いに橋を目指す。
またちょっと走ると、ガードレールぎりぎりに寄せて停車しているワンボックスカーがあった。バイクのヘッドライトが、その車を黒々と照らし出ている。
――あいつらの車かもしれない。
そうと直感して近づくにつれ、運転席が見えてくる。誰も乗っていないようだ。脇を抜けるときに車内を覗こうとしたが、真っ黒なフィルムのせいで見えなかった。
梅本は一旦通りすぎて、止まった。スマホを取り出し、車の背面からナンバーを撮影した。
そのとき、サイレンが遠くに聞こえた。
見やると、梅本が目指していた橋を赤色灯が渡ってきていた。
ヘルメットの中で歯噛みする。顔面の左側がジンジンと脈打った。この怒りをどこへぶつけてやろうか、と周囲を見回すと、ハッとして、ほくそ笑む。
梅本は拳銃を取り出し、ワンボックスカーの後輪に向けて一発放った。そしてすぐさま逆方向へ走り去った。




