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浴室兼トイレから出ると、小さな冷蔵庫とガスコンロを前にして素っ裸のまま立っていた。頭の中は晩飯の献立が巡っている。
所々錆びの浮いた流し台の他は、六畳の間と半畳の押し入れ。これがこの部屋のすべてである。吐き出し窓の向こうは人の往来があるので、昼間でもカーテンを閉じたままだ。
梅本はモヤシと野菜の端切れを、フライパンに放り込んだ。細かいことは気にしないで、とにかく炒めてしまおうと思った。素肌に油が跳ねて「熱っ!」と、たじろいだときにスマホが鳴りだした。
一旦コンロの火を止め、急いで電話に出ると、相手は営業担当の森くんだった。
(どうもぉおつかれさまですぅ。梅本さん、今日の現場で何かトラブルでもありましたか?)
帰りに会えなかった梶が、あの後、梅本の成果を確認して感涙し、派遣会社に連絡した……なんて想像が頭をよぎって、しゅっと消えた。
「何だよ? いつも以上に順調だったけど」
(そうですか。――あの、じつはですね。先ほど先方から連絡がありまして、その、なんていうか……スタッフを替えてくれ、とおっしゃったんですよ)
「は?」
(わかります。は? ですよね。僕も理由を尋ねてみたんですが(上からの指示)ってだけで、よくわからないんですよ)
こんなこともあるとは聞いていた。
派遣先でトラブルを起こす者は、やはり他でもトラブルを起こしがちだ。そうなると担当者が仕事を回したくなくなるのは当然で、結果そのスタッフは辞めざるを得なくなる。ただ梅本は、まさか自分がそっち側に立つことになろうとは、想像すらしていなかった。
(明日、僕が挨拶がてらに行ってきますので、そのときにもうちょっと詳しく訊いてみようと思ってます)
森くんが、電話を切りたがっているのが伝わってくる。
「本当に何もなかったんだけど」
うちの梅本が駄目なら、この契約じたいなかったことにしてもらいます……などと、利益を蹴ってまでスタッフを擁護するようなことを、営業担当者が言うはずはない。派遣会社としては、仕事の依頼がなくなったわけではないのだから。
(ええ、ええ、そうでしょう。梅本さんに限って、先方を怒らせるようなことはないですよね)
そのてきとうな返事に、だんだん腹が立ってきた。しかし、これも森くんに言ったところで、好転するはずもなく……。
梅本は諦め半分で、それなら他の仕事で空きはないか、と訊いてみた。森くんからすれば、何言ってんだコイツ、だったかもしれない。
結果、明日はまた休みになってしまった。
梅本は電話を切った後、返す刀で梶へ電話した。
向こうは、たった四回のコールで留守電に切り替わった。今だけそういう設定にしているのか、拒否されたのかは判断できない。梅本は歯噛みして顔を歪めた。
おもむろに台所へ立っていって、野菜から染み出ていた水を切った。もう一度炒め直すつもりだ。空腹は怒りを増幅させるもの。食って眠れば、この酸っぱい苛立ちも緩和できるはず。
若干塩コショウの効きすぎた野菜炒めを、わざとゆっくり咀嚼しながら、憤慨していた。
――褒められこそすれ、替えてくれとは何だ!
手を抜いた覚えはない。それどころか、今日はいつも以上にがんばったと自負している。
食器を丁寧に片して、コーヒーを飲みおえた頃になっても、彼の憤懣は膨らむばかりだった。部屋の隅で、扇風機に揺られてクルクルと回る靴下を睨みつけていた。片手でスマホを弄んでいた。鼻息荒く、ついにはもう一度電話してみようと思った。
そんなときだ。吐き出し窓の向こうで「にゃん」と鳴く声がする。どうにも腹の虫がおさまらない梅本が無視を決め込むと、姑息にも少し声色を変えて、もう一度鳴く。しかたなくといった感じで、梅本は網戸を開けた。
トンッと舞い降りるように部屋へ進入してきたのは、キジ柄の猫。首輪付きだ。口回り、手足、腹、と部分的に白い。梅本には一瞥をくれただけで、片足を上げ、毛繕いを始めている。オスだった。
コイツとの付き合いは、梅本が派遣会社に登録したのと同時期くらいからなので、かれこれ二年になる。
梅本は、いつものように冷蔵庫からウインナーを持ってきて、鼻先へ突きだしてやった。猫がかぶりつく瞬間に手を引く。猫にスカをくらわせて、ニヤリ。
目測を誤ったと思ったのか、猫はきょとんとした仕草をする。けっこう可愛らしい。しかし、すぐさま左手一閃――ウインナーを梅本の手から引っ掻き落とした。追いかけていって、壁際で食んだ。
その様子を見ていて、ふと思った。
もしかして、昼から取り込んだデータがすべて飛んだとか、ファイルが見当たらないとか……何か自分が失敗したのではないだろうか?
すうっと冷めるような感覚を味わってから、梅本はもう一度梶に電話した。
――もしそうなら謝罪しなければならない。
頭の中でコールを数えた。五、六……今度は留守電に切り替わらない。八で繋がった。
「今日お世話になりました、カンネスサービスの梅本です。データファイルが見つからないとか、何か不具合でもありましたでしょうか?」
(あ、いや……。あぁ)
梶の返事では、どちらとも取れない。梅本は続きを待った。
ややあってから、梶は言った。
(あれから私が、倉庫の最終確認をしたんだけどね。すごく作業が捗っていたんで、びっくりしたよ)
「はあ」
ほっとした。反転してまた腹が立ってくる。それなら、なぜクビにするのか、と喉まで出かかっている。
(派遣さんの交代の件だよね?)
周りに人がいるのか、梶の声質が変わった。
「ええまぁ。それで、何か自分が操作ミスをしてしまったんじゃないか、と不安になりまして」
(そんなことは全然ないんだよ。私も突然上から言われてね。その、申し訳ないけどさ……)
梶もよくわかっていないような口ぶりだ。
そうなると、何を言っても無駄なのだろう。梅本が黙っていると、梶がさらに声をひそめた。
(梅本さんは、うちの国枝専務と何かあったの?)
藪から棒に知らない名を持ち出された。専務というのだから、まぁあの会社のえらい人、で間違いない。誰だそれは、と訊くのもおかしい気がして、
「いえ、まったく面識がありません」と答えた。何だか堅苦しい言い方になってしまった。
(……そう)梶も電話の向こうで首を捻っているようだ。
どうやら、その国枝というえらい人が、梅本を嫌っているらしいことはわかった。どこかで無礼を働いたことになっているようだ。もちろん梅本に心当たりがなかった。だが、同時に近所であった騒動を思い出していた。
それというのは――
路地を歩いていた人が大きなクシャミをして、それに驚いた猫がブロック塀の上から飛び退り、とある爺さんの大切にしていた盆栽を破壊した、という出来事だ。
ほのぼの四コマ漫画みたいな話だが、それが傷害事件にまで発展してしまう。
ちょうどその頃、盆栽の手入れをしていた爺さんは、すぐさまその猫を追い回したが、なにせ老体、あえなく取り逃がしてしまった。
それでさらに怒髪天突き状態になった爺さんは、その勢いのまま庭から飛び出すと、すべての発端となった、クシャミをしたと思しき通行人を追いかけていって、詰め寄ったそうだ。
その通行人にしてみれば、頭のおかしい老害の訳のわからない言いがかりだったに違いない。
そうして口論の末、爺さんは手に持っていた植木ばさみで通行人を刺した。
――というものだ。
梅本が今日一日の記憶をいくらたどろうと、国枝専務なる人物は浮かんでこなかった。もしかして、昼の休憩時に少し会話したあの人この人……と思いを馳せてはみたものの、社員さんにムッとされるような事態にはなっていない。そもそも、どの社員さんとも、それほど深く接していない。
なので梅本は、風が吹けば桶屋が儲かる的なことが、自身に降りかかったのだ、と無理から納得した。
(派遣さんは、こんなことってよくあるんだろ? まぁこっちの事情もわかってよ)
――そんなことが、しょっちゅうあってたまるかよ!
(あぁそうそう、それでだね。梅本さん、ロッカーの鍵を持って帰っちゃってるよね?)
あぐらをかいている梅本の太腿を、口を開けた猫が前足でモミモミと押してくる。
……意気消沈。
「あ、はい。――それは、明日にうちの営業がそちらへ伺うと言ってましたので、返却しておいてくれるように頼んどきます」
(そう。よろしくねぇ。それじゃごめんねぇ)
結局のところ、怒りも不安も何となく曖昧になってしまった。
梅本は電話を切り、猫にウインナーを一本投げてやった。




