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梶に言われた通り、梅本は五階の中ほどにある休憩所にいた。
ここには二台の自販機と、ブーメラン型の長い椅子が二脚あるだけだ。だらりと横になりたかったが、休憩所とはいえ通り道のような場所なので、さすがに遠慮しておく。半透明のガラスで覆われた喫煙ブースがすぐ隣にあり、引っ切りなしに誰かがやってくるというのも気のおけない理由だった。
梅本の左手にはスマホ。それで何を検索するでもなくゲームをするわけでもなく、ただ長椅子の端で前屈みに腰掛けている。
そこへ一人また一人と、飲み物はついでという感じの社員さんがきて、梅本を誰何していく。
「カンネスサービスっていう派遣会社です」と「五日間だけですけどね」と「二階の倉庫の書類を……」と、返答はだいたいその程度で済んだ。
そうしているうちに、やっと梶がきて、梅本は再び倉庫へ向かった。
「それじゃぁ、もう完全に任せちゃっていいよね。五時半になったら片付けに入ってもらって、終わったら五階へ上がってきてくれるかい」
「わかりました」
「一応、私の携帯の番号を教えておくよ。機械の調子とか、他に何かあったら電話して。誰も見にはこないと思うけど、しっかり頼むね」
「はい。――台車の、この終わったやつはどうしたらいいんですか?」
「あぁ終わったやつか……」梶は顎に手をあてる。「そうだね、二度手間で申し訳ないけど、やっぱり廃棄用に箱を作って、わかるようにして積んどいてくれる?」
指示が二転三転する。初日ということで、いろいろ不備があるようだ。そんなことに目くじらを立ててもしかたない。突発の仕事ではよくあることだ。とりあえずは今日一日やらせてみて、改善策を検討するといったところだろうか。意見提案するならば、今日の帰り際でいいだろう。
それから梅本は午前に引き続き、スピードを重視したやり方で、息をするのも忘れているかのように没頭した。
そうやっていくつ目かのダンボール箱を開いたときに、ふと集中力が途切れた。一番上にあった議事録の表紙には(B地区集中戦略)とある。
梅本は立ち上がってグッと伸びをした。知らない間に肩や背中に疲労物質が育っている。ちょうどそのときに、十五時を告げるスマホのアラームが鳴った。時間の経過がやたらと早い。
「缶コーヒーでも買ってくるか……」
梅本は股間のポジションを少し直して、倉庫から出ていった。
梅本は、比較的真面目な学生だったにもかかわらず、学校の成績が悪かった。
それが、高校一年の秋から突如勉強するようになるのだ。動機は、当時好きだった女の子が、頭のいい男性と付き合いたい、などともらしていたから……この際、不純、単純はどうでもいい。すぐに目的は変わったのだから。
後々になって、その娘が言った(頭のいい)という意味が(成績がいい)ということとは違っていると知っても、それほど落胆しなかった。知って、より没頭するようになったといってもいい。高校時代は机に向かっていた記憶しかないほどだ。三十歳になった今でも、あれ以上努力したことはなかったように思う。
その努力は実り、とある国立の大学に入ることができた。
両親も含め、兄弟五人の中で大学まで進学したのは、梅本一人だけだ。
そうして受験を乗り越えた瞬間、梅本は弾けてしまう。そこら辺の不良達から一番馬鹿にされる、大学デビューというやつだ。
そこで彼にも人生初となる恋人ができた。美人とはお世辞にもいえないが、金持ちのお嬢さんだった。
梅本は、一人暮らしを始めた彼女のマンションに入り浸った。おんぶにだっこで、ヒモのような大学生活を送ることになる。その彼女とは別の、不特定多数と夜な夜な遊び歩くようにもなった。
……それが今や、会議議事録の(B地区)という箇所にふんわりと反応してしまう始末。思春期に逆戻り、いや、今時中学生でもそんな奴のほうが珍しいか。欲求不満も甚だしいかぎりだ。
――午後からの作業中は、本当に誰も来なかった。
梅本の仮想では……、
「そろそろ時間だし、今日のところはもうしまいにしてよ」と、鼻クソを食いながら呼びにきた梶が、作業の進捗具合が予想以上だったことに驚いて、居ても立ってもいられず派遣会社へ電話する。そして派遣担当者に賞賛の辞を送る……はずだった。
片付けを終えた梅本は一人五階の総務へ上がり、作業終了確認のサインを貰って、一日を終えた。
梶は不在。まさか帰ったということはないだろう。サインは、ここの社員なら誰のでもいい。しかし梅本としては、唯一知っている社員に挨拶もなく退社することが、何だか締まらないような気がして残念だった。
会社から出ると、忘れていた熱気にさっそく包まれた。上着を脱いでリュックに詰める。まだまだ体感的に季節は夏だ。
梅本は歩きながら電話を取り出した。業務終了の連絡を派遣会社へ入れる決まりになっているからだ。
本来ならば、派遣先に到着した際にも連絡しなければいけないのだが、二年もやっていると、そのへんはなぁなぁになってきている。ドタキャンで双方に迷惑をかけたことなど一度もないので、とっくに信用を得ている、と梅本は勝手に考えていた。
「おつかれさまです。三五二四の梅本です。とりあえず終わりました」
(二、四と……はい。梅本さん、おつかれさまですぅ)
電話に出たのは、給料を取りに行くといつも梅本の調子を気にかけてくれる、花川という女性社員だった。もちろん彼女は梅本だけを気にしているわけはなく、スタッフ全員に気を配っている。わざとか癖なのか、彼女の動作には一々品がついていて、妙に艶めかしい女性だ。
ときに花川は、そういう仕草を勘違いされたのか、スタッフから交際を申し込まれることがあるそうだ。さすがに待ち伏せされたときには、所長も巻き込んでひと騒動が起こったが。
――と、それについて梅本は、彼女と二人きりのときに相談を受けたことがある。そのときは梅本も、俺は特別なんだと思った。
(今回は五日間の契約ね。明日もがんばってくださいよぉ。――ところで、そことの取引はうちも初めてだったんだけど、どんな感じなの?)
後日、同じような相談を受けたというスタッフが何人かいることを知らされて、梅本は目を覚ますのだった。
「親切丁寧、エアコン付きで快適、食堂あり。ただ、仕事内容にもよるけど、ワイシャツにネクタイは持参したほうがいいかな。まぁ気分の問題だけど」
(そうなの? ふ~ん、じゃぁ備考欄に加えとくわね)
初めての取引となる現場へは、営業担当者が偵察と挨拶をかねて同行する。しかしそれは複数人が同時に雇われるような大口の場合であり、今回のように単発的、ましてや一名だけという所へは、派遣スタッフだけで行く。
そして、後学のための情報収集。顧客が数社の人材派遣会社の中から、またカンネスサービスにお願いしようか、と思ってくれるかどうかは、初日に行くスタッフの印象が大切であり、梅本には(初日)を引き受ける自信があった。
「力仕事でもないし、時給がもうちょっと高かったら、募集に殺到するんじゃないかな」
(そうなのよねぇ……)
お前らが三割もピンハネしなければ、時給をもっと上げられるはずだろう――と思っても、仕事を回してくれる人に悪く思われたくはないし、花川にそれを言ってもしかたないので、梅本は口をつぐむ。
自宅アパートまでは、ここから徒歩で一時間。
普段はホンダのエイプという百十㏄のバイクでどこへでも行くのだが、それは先週に盗まれている。
梅本は一度手をかざして西日を遮った。