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洗顔だけをさっと済ませて外へ出た。
バイクは部屋の前に横つけてある。よくよく見ると、ヘッドライトやらに虫が潰れてへばり付いている。ホイールもずいぶんと煤けて見えた。峠道では虫に集られたようには感じなかったのに、知らぬ間にやられていたようだ。もしかして、コイツらは農道近辺の生まれか? 飛んで火にいる……というのは意味が違うか? そんなことを考え、ニヤニヤが止まらない。
普段の梅本なら、性格からしてこれくらいの汚れは放置だった。しかし、今日ぐらいはピカピカにしておきたい、と思う。
思い立ったが吉日というのもちょっと違う気がするが、さっそくバケツに水を張り、台所用洗剤を溶き入れ、泡立てた。大胆にスポンジで泡を載せていく。小型のバイクは洗車の面でも、かなりお手軽といえる。
そして、あっという間に磨き終わった。
アパートの横手にある貯水槽の水栓を開き、何度もバケツに水を汲んで洗い流した。ホースが欲しいところだ。乾く前に水滴を拭い去る。この仕上げ作業が重要で、肩に掛けていたタオルで上部から丁寧に拭っていった。
そして、もう半分というときに、尻のポケットでスマホが震えだした。
画面を見ると、カンネスサービスとある。交番で返してもらってから、最初にかかってきたのが仕事関係という……。梅本は夕焼けが残る空を遠くに見て「明日も晴れかな」と呟いた。
(梅本さん、明日暇でしょ?)
言うに事欠いて、花川の一声は成人男性の頭をなでる様。一度くらいは、忙しくて堪んねぇよ、と言い返したいものだ。
「おぅ。暇を持て余しているよ。割のいい快適でお洒落な仕事場を紹介してくれ」
(ふふ、そんなのないわよ。じゃぁね、とりあえず明日の朝五時なんだけど、OK?)
「えらく早いな……。何時だろうと構わないけどさぁ。いつも言ってるだろ。まず仕事内容と時給を教えてくれよ」
(えぇ、どうしようかなぁ……)
仕事の連絡でそんなやり取りは必要ない。拭き取り中の、もう一方の手が苛立ちまぎれに雑になる。
花川の電話を切ると、総仕上げにかかった。
完璧に拭きあげるには、車両を前後左右に揺さぶって、滴りの有無を確認しなければならない。しかし、視界がすでにアパートの蛍光灯頼りになっている。梅本は諦めて、バイクを自転車置き場へ移動させた。その途中、サイン伝票のことを思い出した。
「どうも、カンネスサービスの梅本です。今お電話よろしかったでしょうか」
(おう、梅本くんか、大丈夫だよ。あぁ昨日はすまなかったな)
「いえいえ。こちらこそ何度もご馳走してもらってありがとうございます。――えっと、今からそちらへ伺おうと思うんですけど、どうでしょう? 伝票の件なんですけど」
(あぁそれな。来るとしたら何時頃になる?)
「じつは新しいバイクを手に入れたもんですから、すぐにでも行けます」
(ほぉ、そうなのか。まぁ一時間くらいはまだここにいるつもりだから、ゆっくりでいいけどよ。あっそうそう、歩きでタヌキを持って帰るのは大変だったろう」
バイクのことで頭が一杯なっていた。タヌキはコインロッカーに入れっ放しだ。
通話を切って、一旦部屋に上がった。すぐに愛用のリュックへ手を伸ばす。午前中に掃除したときにここへ入れた覚えがある。一緒に新しい伝票台帳も入れてあったはずだ。
梅本は伝票と、二つの鍵をウエストポーチへ移した。それと自転車ロープも棒状にして持った。バイクにまだ荷台を付けていないので、このロープで何とかするつもりだ。
それと、タヌキの鍵と、昨夜電話ボックスで見つけた鍵には、同じ種類のキーホルダーが付いていた。今朝の掃除中に気づいたことだ。絶対とは言いきれないにしても、謎の鍵は駅前のコインロッカーのものである可能性が高いと思った。愉悦と懸念が交互に明滅する。
どちらの鍵がタヌキのだったか、それがどうにも思い出せない。どちらも三桁の番号がふってあった。だが、実際に行ってみればわかるはず。タヌキのほうは確か真ん中よりちょっと左、ヘソの高さくらいのボックスに入れたはずだ。
もう一方の鍵は一応持っていくものの、開ける、触るは状況しだい。本来の受け取り人が見張っていないとも限らない。
梅本は夏用のバイクジャケットを羽織り、部屋を出た。
「お……小っちゃいな」
陣内がバイクを前にして言った。馬鹿にしたような言い方ではなかった。見たまま、感じたまま言っただけだろう。
「125です。これがまた元気よく走るんですよ」
「へぇ」の後、面白そうだな、とは続かない。
陣内も、バイクといえばハーレー、大きいといえばナナハンなんていうクチだろうか。あまり興味がなさそうだった。
梅本は店内でコーヒーを馳走になり、世間話に付き合った。一度会ってみたかった、胸が大きいという社員は、本日も早々に帰宅したらしい。また陣内から飲みに誘われたが、配送補助の仕事依頼を受けたこと、それが朝の四時起きであることを理由に遠慮した。立ち去り際にタヌキのことを正直にいうと、陣内はただ笑っていた。心底どうでもいい、という感じだ。
「ああいうのは追加料金がかかるから、早く取ってきたほうがいいぞ」
「そうですよね」
要らない物を、わざわざお金を払ってまで受け取る行為を思えば、肩を落とさざるを得ない。そのオーバーリアクションが陣内にウケて、梅本は嘲笑に背中を押されて駅へと向かった。