カワサキ
仕事のない日は昼近くまで寝ている梅本も、今日に限っては八時前から起きて、部屋を掃除したりエアコンの室外機周辺を除草したりしていた。
藤木モータースの営業開始は十時なので、それ以前に電話がかかってくることはないのだが、納車日ということで、彼は地に足がついていなかった。狭い部屋の中でもスマホを身につけていたほどだ。
彼は昨夜、日付が変わる頃までZ125のスペックを検索して熟読し、動画サイトで何本かの試乗インプレッションを観ている。対抗馬がホンダのGROMだと知ったのも、その動画でだ。それと並行して、バイク用グローブの準備に、ヘルメットの汚れ取りに精を出した。たとえ中古車であっても、新たな乗り物を手に入れることじたいが嬉しい。
猫のベッカムはというと、大変迷惑なことに朝の三時頃までこの部屋にいた。
零時前に一度追い出したのだが、十分と経たないうちに舞い戻ってきたのだ。初めてのことではないにしても、それは珍しいことだった。
ヘルメットを磨く溶剤が鼻についたのか、ベッカムは顔を顰めて時折遠ざかるものの、またすり寄ってきて伏せ、梅本の作業を見物していた。上機嫌でいる者の傍は、猫も居心地が良いのだろうか。
ただ梅本としては、外出自由(元々外飼いなのかもしれない)のベッカムがよくノミを拾ってくるので、一緒の布団に入ることだけはしたくなかった。腹の上で丸くなられても同じことだが……。
朝までいてもらっても一向に構わない。が、中途半端な時間にニャースカと喚いて帰りたがるのは勘弁してほしい、と思った。
やがてすることがなくなった梅本は、クロックスを引っ掛けて外へ出る。スーパーへ買い出しに行こうと思いついたのだ。
ついでに自転車置き場の現状を見ておく。特に指定席を設けていないので、置いた者勝ちになっている。枠から外れた所に置いたとしても、誰に怒られるわけでもないが、やはり皆屋根の下を積極的に狙うのだ。
外はなかなかのバイク日和。先ほど草むしりをしていたときよりも、気温はぐっと上がっている。
もしも、バイクを入れる隙がないようなら、パンクして久しいような放置自転車を退ければいいくらいに考えていた。――何もしなくていいようだった。ちょっとの間、彼が使っていたチェーンロックが、盗難防止用の駐輪パイプにかかったままで、それが場所取りの役目を果てしてくれていたらしい。
梅本は安堵して、そのまま近所のスーパーへ出かけた。藤木から連絡はまだ来ないだろう。
そうして買い物を済ませ、戻ってくる。まだ午前中だった。かつ丼を食って納車に備える。どこぞの受験生のようだ。本当にすることがなかったので、ヘルメットとグローブを持って、電話連絡より先に藤木モータースへ出向くことにした。徒歩で十分ほど。道中、梅本は自身の顔が弛緩していることに気づいていなかった。
店に着くと、藤木の奥さんが一人でいた。
「もう来ちゃいましたけど」と言うと、元ヤン丸出しの純さんは、盛り盛りのつけ睫毛をバタつかせて歓迎してくれた。藤木は修理車両の引き取りへ出掛けているらしい。その帰りに役所へ寄ると言っていたそうだ。
梅本はZ125を前にして仁王立ち。フロントのカウルが外されて、作業台の上に置かれていた。どういう状態なのかわからないので、ヘタにエンジンをかけないほうがいいと思った。跨って、ハンドル位置を確かめる。足つきは上々すぎるほどで、全体に窮屈だと感じる。そしてフロントタイヤがやたらと近い。ぎゅっと凝縮されたボディから武骨さが伝わってくる。速そうだ。
「梅ちゃん、コーヒー」
「はい、いただきます」待つしかない。
梅本がテーブルに着くと、純さんは棚から一枚のDVDを抜いてデッキに入れた。
「これ、こないだのレースのやつよ。ゼッケン2がうちの旦那」
「へえ……」
映像は和気あいあいとしたレース準備から始まっていた。この店で見かけたことのある常連さんも、何人か見える。純さんもときどきフレームに入ってくる。撮影者が誰なのかはわからなかった。藤木の着替えシーンは誰に対してのサービスだ? 梅本は苦笑いで早送りした。
パソコンに向かっていた純さんが、決勝レースが始まる寸前、梅本の後ろに来て解説を始めた。どんなモータースポーツでも、スタート直後の第一コーナーは見物だ。結果を知っているはずの純さんが、後ろで息を飲んだ。よほど好きなんだな、と思う。
しばらく観ていて、アッと声を上げたのは梅本。「コイツ……」と言って止まった。
「あそこで引っ掛けられたら、どうしようもないわね」
藤木は早や二週目で転倒して、リタイヤになっていた。コーナリングの最中、内側にいた奴が滑って、それに巻き込まれた恰好だ。
純さんが「何度観てもムカつくわ!」と興奮して、梅本の首を背後から片腕で締めあげた。
血圧を上げるくらいなら、最初から観なければいいのにと思いつつ、純さんのロケットパイオツが頭部全域で苦気持ちいい。
「おまたせぇ、準備できたよ。思ってた通りの上玉だったから、タイヤとオイル以外は何も変えてない。しばらくこのまま様子をみて、何か気づいたらまた言ってきてよ」
「はい。――んじゃ、さっそく走ってきます」
梅本は書類をリュックにしまい背負った。藤木が帰ってくる前に、車両代金と保険の支払いは済ませておいた。ジェット型のメットを頭に載せたとき、藤木の手でエンジンがかけられた。社外品のマフラーが小気味よくうるさい。暗黙の了解の内に、細かな操作説明は省かれている。
「うん、天気もいいしね。あっタイヤは前後新品だから、ちゃんと皮むきをしてよ」
「わかってますって」
表まで見送りに出てきた二人にガン見されての発進だ。にわかに照れと緊張が走った。
「ガソリンはほとんど入ってないから。それとフロントがすぐに浮くから、慣れるまでゆっくりね」
藤木の忠告にうなずく。
昨夜観た動画の中に、新車を買ってから十秒くらいで事故って廃車にする、という笑えないものがあったことを思い出す。梅本は二人へ会釈すると、ゆっくりとクラッチを繋いだ。
梅本はガソリンスタンドを出ると、さっそく山方面へ向かった。農道をぶっ飛ばし、峠を何往復かして、だいたいの特性をつかんだつもりだ。エイプとは比べようがない。ヒルクライムではやはりパワー不足を感じるものの、これは面白い、というのが梅本の率直な感想だった。
ただ、燃料代が馬鹿にならない。この近辺ではリッターあたり百四十円台に突入している。これを遊び道具とするのは、食費を節約していることに相反する。……帰ろうと思った。
ところが、県道沿いにある、潰れたパチンコ店の前を通ったとき、そこの駐車場で騒いでいるグループが目に留まった。バイクは三台。高校生くらいの男女が六人。どこから持ってきたのか、背の低いパイロンをわざわざ並べて、スラロームやらウイリーの練習をしているようだ。楽しそうだった……。
結局、部屋に戻ってくる頃になると、陽が傾きかけていた。
齢三十にして、高校二年生のお友達ができてしまった。




