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就業ルイン  作者: ゆぞぅ
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 梅


 十日ほど雨が降っていない。この地域にまだ秋の気配は訪れず、今朝も重厚な暖気に包まれていた。

 六階建てのオフィスビルを正面に見据えて、今一度メモを取り出し確認する。

 場所、社名、約束の日時。

 梅本 春彦(うめもと はるひこ)は、肩を解すように上下させ短く気をはいた。初めての職場へ行くときは、だいたい同じようにしていた。


 やがて数十人を足止めしていた信号が青に変わり、人の一塊が(せき)を切ったように動いた。自分の目で青信号を確認した者が、この中にはいったい何人いるだろうか。

 渡りきる直前から、その流れは左右に割れた。梅本と他四名がそのまま正面のビルへ入っていった。

 きっちりとネクタイを締めたサラリーマンたちに混じってエレベーターへ乗り込むと、まだ朝の八時半だというのに、すでにひと仕事終えたような吐息がカゴ室内に充満した。

 五階まで乗っていたのは梅本だけだ。


「おはようございます。カンネスサービスから参りました。梅本です。担当の方はおられますか」

 すぐ近くで歓談していた男女六名が一斉に振り返り、互いの顔を見合わせた。とくに担当者を決めていないのだろうか、少し間があってから、一番大柄な男性がちょいと手をあげた。腹が出っぱっていて、糸のような目に眼鏡をかけている。


「あ~おはようさん。梅本さんね。聞いてるよ。総務の(かじ)です。始業時間にはまだ早いけど、とりあえず今からロッカーに案内するから、ついてきてよ」

 二人はオフィスを出て、エレベーターに乗り込んだ。二階で降りて廊下を少し歩くと、梶が更衣室とプレートのついたドアを開けた。男女が明記されていないのは、二階の更衣室がすべて男性社員用だからだそうだ。


「ここの六番のロッカーを使って。鍵はあずけておくよ。小さいけど失くさないでね。じゃぁよろしく頼むよ」

「はい。よろしくお願いします」

 梅本はベージュのスラックスに、ポケットがやたらと多い紺の作業上着で来ている。オフィス内作業だと聞いていたので、比較的汚れのない服を選んだつもりだ。財布、メモ帳、ボールペンを背負ってきたリュックからポケットへ移せば、そのまま作業に取りかかることができた。


「始業時刻にはだいぶ早いけど、先にやってもらうことの説明だけでもしとこうか?」

「そうですね。お願いします」

「それじゃ三階の倉庫室へ行こう。私たちも仕事の合間に作業するようにしていたから、器材はそのままにしてあるんだよ」

「そうですか」

 これからする作業が、まるで仕事ではないように聞こえるのは、梅本が卑屈になりすぎているせいだ。以前のように、すぐ反論して場を濁すのは立場上よくない。思っても抑えるのが利口であると理解している。それくらいはできる男だ。

 しかし、冗談めかしてツッコミを入れるようなコミュニケーションの取り方が下手だった。吐き出すか、我慢するか、その二択だ。どちらにしても、結果的にはフラストレーションが溜まる。梶の表情に嫌味は見えない。そんな長考で、今回はタイミングを逸した。何もなかったことになった。


 梅本は人材派遣会社に登録していて、ド短期といわれる仕事をこなしていた。一日だけ、半日だけというものまである。始終業時刻と名前を書き入れた伝票に、現場担当者からサインを貰い、それを派遣会社事務所へ持っていくと給料が手渡される仕組みになっていた。

 伝票を何枚もためて一気に換金する者もいれば、仕事終わりの足で日銭を受け取りにいく者もいる。

 安定収入と慣熟を求めるなら、長期の募集に飛びつくのがいい。しかし梅本はすぐに再就職できるものだと高をくくっていて、方々に迷惑がかからないよう、後腐れのない短期の仕事を選り好み受けていた。


 そうして二年と経つが、梅本はその考えを変えていない。ずいぶんと前から、常に新人であり一番下っ端という立場を楽だと感じるようになっていたが、おそらく本人は気づいていない。

 派遣先によっては、いきなり舌打ちでもてなされることがある。名前で呼ばれることもなく、日中ずっと「おい、お前。そこのバイト」と呼ばれ続けるのだ。

――と、そんな仕事場に比べれば、ここはなかなか親切な部類に入る。(当たり)かもしれない、と梅本は思った。


 今回の仕事というのは、この会社に眠っている膨大な紙媒体を電子媒体へ移行すること。

 三十年以上前の資料がその対象になる。綴り紐やホッチキスで束ねられた埃の塊をばらし、スキャナー二機をフル稼働して、ひたすらパソコンに取り込んでいく作業だった。


「今さら誰も見ることなんてないんだけど……上からの命令でね。すべての記録を残せと言うんだよ」

 単純な作業だが、とにかく時間がかかるらしい。利益が出るわけでもなし、なるほど、社員さんの時間を割けないわけだ。

「何日か前から手の空いた者が、ちょこちょことやってはいるんだけどねぇ。ぜんぜん先が見えないんだよね。梅本さんも、この五日間でできるところまででいいけど、なるべくがんばってよ」

「はい。やってみます」

 久々に冷房の効いた部屋でのお仕事。倉庫に天井埋め込み式のエアコンがついている不思議。今の時期、こんなありがたいことはない。パソコン操作も、プログラミングできるほどではないが、苦手ではない。八時間半の拘束で六千五百円という日当がネックになっていて、なかなか受け手が見つからなかったのだろう。


 梶は一番手前のスチール棚からダンボール箱を一つ降ろし、比較的薄目の資料を一部取って、手本を示した。そして「九時から開始ね」と言い残し、部屋からさっさと出ていった。

 梅本は梶を見送った後、さっそく作業に取りかかった。


 どう考えても保存する必要がないものは、先に省いてしまいたい。しかし、外部から人を雇うことになったから、すでに仕分けておいた、ということはないようだ。効率が悪いとわかっていても、梅本にそれを選別する権限はないので、ひたすら取り込んでいく他はない。初日なんだからと甘えようとは考えていない。派遣会社が、しいては個人が認められるには成果が大事なのだ。

 一見してわかりやすい例として、この台車に処理済の資料をどれだけ積み上げられるか。要はスピードということだ。梅本はそう考えて目の前の紙に挑んだ。

 ファイル名は、長ったらしくも冊子の表紙をそのまま引用した。作成した日付もあったので、それも忘れずに記載しておいた。後で好きに改変してくれればいい。


 梶の手本の続きと、もう一つがエレガンスにまとまったところで、ちょうど九時になった。これでだいたいの流れは把握できたといっていい。

 それからも、梅本は水分を欲せずトイレへも立たず、まさに一心不乱に打ち込んだ。

 そうしているうち、五十枚ほど前からエラーが出ていることに気づいて、梅本の顔は引きつった。彼のこめかみに冷たい汗が流れる。

 手待ちをなくすためにやり方を変えて、一々確認しなかったのが裏目に出たのだった。


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