獅子と女神
引きずり出された〈黒の女神〉を見て、彼は玉座を蹴って立ち上がっていた。
彼が、その顔を忘れるわけがなかった。
幾度も心に描いた面影は、最後に見た十五の歳のもので、今目にしているものとは随分違っていたけれど。
「リヒテ…」
そして〈黒の女神〉もまた、〈獅子王〉の姿を見て、目を見開いていた。
「キーファ…?」
彼女は今二十五になっているはずだった。
美しい衣装に包まれた細い体はたおやかな女性のもので、その顔にも〈女神〉の威厳がにじむ。
けれど。
「キーファなの…?」
か細い声で囁くように問いかける、その表情は彼の少女のものだった。
あの日、あの時、彼が腕に抱いて、一生守ろうと誓った、あの少女の。
「キーファが〈獅子王〉なの…?」
〈女神〉の威厳も何もかもを忘れて、リヒテが今にも泣きそうに顔を歪めた。
「キーファが私たちを殺そうとしてたの…?」
「…それは!」
リヒテの言葉にキーファは言葉をなくした。
否定なんかできない。
なんて残酷な、けれど、これ以上ないほど明らかな現実。
「…俺は、お前を迎えに行くために」
それを、どんなに拠り所にしてきたことだろう。
なのに。
――なんて言い訳じみて聞こえるのだろう。
「私も、あなたが帰ってくるのを待っていたわ」
屈強な兵士に押さえつけられて、なのに、静謐に響く、リヒテの声。
昔と、同じように。
「お前を迎えに行くには、ここでのし上がるしかなくて」
華やかに飾り立てられて、玉座の間に立ち尽くす自分と、数段下の床に押さえつけられている彼女。
「あなたが帰ってくる場所をなくすわけにはいかなかったの」
互いに掠れた声で、あまりのことに青ざめて。
「…あんまりだわ」
リヒテが震える声で、溜息をつくように呟いた。
「…こんなの、あんまりよ」
その白い頬を、透明な涙が伝い落ちる。
「私はキーファに会いたかった、それだけなのに!」
こらえきれなくなったリヒテが半ば叫ぶように言い放ち、キーファが凍りついた。
幼い子供のように堪えることもせず、周りをはばかることもなく、泣きむせぶ姿は、昔と変りなかった。
自分の前でだけ、素直な感情を見せてくれた少女の姿が重なる。
魔女、と呼ばれた女が声をあげて小さな子供のように泣く姿に、人々は呆れ、戸惑った。
「この魔女を知っているのですか、王」
問われてキーファはびくり、と我知らず体を震わせた。
「…知っている」
「まことですか」
「俺が、十年求め続けてきた相手だ」
〈獅子王〉の言葉に、将軍がぐっと眉根を寄せた。
それに気づいた風もなく、彼の王は蒼白な顔に虚ろな目で言葉を続けた。
「俺が、一生守ると誓った」
「――魔女です」
王の言葉にかぶせるように、彼は殊更強く言った。
「あれは魔女です、王」
王を、その言葉で縛るように、強い言葉と口調と、眼差しで。
「あれは、殺さねばなりません」
「…いやだ」
今にも倒れそうな顔色で、キーファは呟き首を振った。
「いやだ、できない」
小さな子供が駄々をこねるように、じりじりと将軍から後ずさりながら。
「リヒテを殺すなんて、できない」
〈獅子王〉と呼ばれた男がこんな女々しいことを言うなんて、誰が想像したろう。
居並ぶ廷臣たちが動揺し、あたりにさざ波のようなざわめきが広がり始めていた。
「ご命令を、王」
将軍の、無慈悲にさえ聞こえる声が、その場に居並ぶ者たちの耳を打つ。
「魔女の首を刎ねよ、と」
「いやだ!」
王と呼ばれた男は、威厳も何もかなぐり捨てて首を振った。
そんなことをできるわけがなかった。
ただ、彼女に会うことだけが支えだったのに。
もう一度会って、そしてこの腕に抱くことだけが望みだったのに。
それが、どうして、こんな。
「王!」
聞き分けのない相手に将軍が珍しく声を荒げたが、それが無駄だと悟ると忌々しげに顔を歪め、振り返って魔女を押さえつけている兵に命じた。
「魔女の首を刎ねよ」
「やめろ!」
氷よりも冷徹に響いた将軍の声を、悲鳴のような王の叫びが追う。
「やめろ、やめてくれ!」
そこにいるのは既に王でも大人の男でもなかった。
恋しい少女を守るために、自分の体を投げ出すことしかできなかった少年。
あの時と何も変わらない無力な少年がひとり、いるだけだった。
「王は、ご乱心されておられる。取り押さえよ」
将軍の声は、ひたすら冷静で。
戸惑いながらも主君の腕を固めようとした兵士たちは、振りほどこうともがく王に、あっさりと弾き飛ばされた。
「やめろ、頼む、殺さないでくれ!」
キーファはよろめくように将軍の側へ歩み寄り、崩れ落ちるようにその足元に膝をついた。
「頼む…」
その長い裾をすがるように掴み、涙で潤み始めた目で見上げる。
彼らの力関係はいつだって変わらなかった。
始めて出会った時から今まで、何ひとつとして。
将軍が描き、王が彩る。将軍が立てた計略を完璧にこなして、キーファは王と呼ばれる身分を手に入れた。キーファは将軍なしではここまで来られなかった。
分かっていることだった、そんなことは。
自分が将軍にとって、目的を叶えるための駒でしかないことは、自分の中で納得できたことだと思っていたのに。
どうして、こんなにも裏切られたような気持ちになるのか。
どうして、こんなにも――思い知らされるのか。
自分の言葉に何にも力がないことを――お飾りの王に過ぎないということを。
「頼む…!」
自分の無力さに打ちひしがれたキーファが、堪え切れずに涙をこぼした。
「頼むから…」
「やれ」
キーファの声など聞こえていないかのように、否、そもそも彼など最初からいなかったかのように、淡々と繰り返される命令。
魔女を、リヒテを殺せ、という命令。
キーファは色を亡くした顔で将軍を凝視し、そして、不意に身をひるがえした。
「――王を取り押さえよ!」
魔女のそばに駆け寄ろうとした王は、しかし、将軍の命を忠実に実行するものたちによって阻まれた。
「リヒテ…!」
彼女と同じように床に引き倒されて兵士によって抑え込まれながら、それでもキーファは彼女とは全く違う立場にいる者だった。
それが、彼にとっては、ただ悔しくて、情けなくて。
涙が、止まらなかった。
「キーファ…っ」
先ほどよりも距離は近い。けれど、ふたりの距離はこれ以上ないというほど遠かった。
「リヒテ、リヒテ!」
何度も彼女の名前を呼ぶ男。最後に見た時、まだ幼さを残していた顔は、すっかり精悍な男のものだった。けれど、浮かぶ表情はあの時と同じもの。
自分の無力に打ちのめされ、それでも必死に足掻こうとする。
「キーファ…」
彼の顔を見たいのに。
もっと、ちゃんと、目を閉じてもくっきりと思い描けるよう、瞼に焼きつけてしまいたいのに。
涙でぼやける視界はリヒテの願いを嘲うかのようにゆらゆらと世界をにじませる。
「キーファ…!」
涙にぬれた声で必死に自分の名前を呼ぶ声は、あの時と同じ。
何もかもが、あの時と同じだった。
「彼女を殺すなら、先に俺を殺せ!」
押さえ込まれ、涙で視界を曇らせながら、そう吼えたキーファの声は、しかし、紛れもなく王者のものだった。
「国も玉座もくれてやる、そんなもの、リヒテがいなければ俺にとっては何の意味もない!」
それは血を吐くような叫びだった。
この十年、ずっとずっと胸に思い続けていた。
それだけが生きる支えだった。
だからこそ、今の自分がここにいる。
「彼女がいなければ、俺は俺でいる意味すらないんだ!」
「…だからあなたは愚かだと言うのです」
将軍の声は静まり返った場の中で、いやに大きく響いた。
さして強く声を出したわけでもなかったのに。
「あなたは王を名告り、私たちはそれに従い、ここまで来た。それらは契約です。神代の昔からのね。それを一方的に破棄すると?」
「俺に従っただと?」
はっ、とキーファがもらした笑い声は、ひどく自虐的なものだった。
「俺じゃなくて、お前の間違いだろう、将軍様」
床に引き倒された体勢のまま、王は壇上の将軍を見上げた。
その双眸は涙でぬれていたが、居並ぶ諸将には見慣れた色も混じり込んでいた。
彼らの王が戦いに赴く時、その瞳に浮かぶ色。
――敵を敵と見定めた時、その瞳に宿る色。
「俺はいつだってお前の人形だった、お前は自分の思い通りに動く人形が欲しかった、俺たちの関係はそれだけだろう、違うか?」
「――だから、どうだと?」
言われた将軍の眼差しは凍てついたまま、その言葉を否定も肯定もしなかった。
「それでも私たちはあなたを王として立てた。そしてあなたはそれを容れた。契約は成されたのです」
「俺は最初に言ったはずだ、俺が望むものを得るまではお前に従おう、と」
王の視線が次第に熱を帯びる。
それは、やがて火を噴く一条の刃となる。
その瞬間を居合わせた者たちは知っていた。
彼らの王が、なぜ〈獅子王〉と呼ばれるのか、その所以を。
彼が相手を己の敵と看做す時、――相手の喉笛に噛みつき、食い殺すことだけを望むから。
そこには一片の慈悲も情けも存在しない。
あるのは、ただ、強者の掟だけ、だから。
業を煮やした将軍が自ら剣を抜いた。
御前で帯剣を許されるのは、将軍を含め、たったの数人。
どれほど物静かな知将に見えようと、将軍は〈将軍〉だった。
武功を立てた者だけが位階の階段を昇ることが出来る中で、揺るぎなく頂点に居続けた男。
その太刀筋は怜悧で、氷に似ていた。
迷いもなく、感情もなく、無機質さよりも、もっと冷たさを感じさせる剣。
一閃。
斬り上げた白刃を追うように、リヒテの背から鮮血が宙に弧を描いた。
長い黒髪が踊るように虚空を舞う。
茫然と眼を見開いたリヒテは、そのまま前のめりに床へ倒れていった。
キーファの目に、ゆっくりゆっくりとした残像を映しながら。
浅く短い呼吸を繰り返すリヒテを、キーファは茫然と見下ろした。
抱き上げるまでもなく分かった。――分かって、しまった。
彼女はもう、助からない。
床に海のように広がっていく赤い血溜まり。
彼の顔を見て、リヒテも自分の状態を察したのだろう。
血の気の失せた口元にうっすらとした笑みをはいて、彼を呼んだ。
「…キーファ」
王としての豪奢な衣装を魔女の血で染めて、〈獅子王〉が彼女を抱きしめた。
背中の傷に触れないよう、繊細なガラス細工を扱うよりももっと、そっとした手つきで。
「――…」
何も言えず、ただ自分の髪を梳く男を、リヒテが呼ぶ。
「キーファ」
「…なに?」
応える声は掠れて、こぼれた涙がリヒテの頬に落ちた。
「泣き虫」
「…仕方ないだろ」
からかうような口調は力なく、それでもキーファは羞恥でわずかに頬を染めた。
ああ、確かに自分は彼女の前でいつも、みっともない姿ばかりを見せている。
「でも、嬉しいよ」
リヒテは仔猫のようにキーファの胸に頬をすり寄せた。
「こうやって、あなたに抱きしめてもらうのが夢だった――あなたに会うことがひとつめの夢。こうして抱きしめてもらうのがふたつめの夢」
ふふ、と笑ったリヒテの顔は、蒼白を通り越して土気色になり始めていた。
「…みっつめはあるの?」
キーファがそっと促すと、リヒテは感情の見えない目で彼を見上げ、呟いた。
「みっつめは、ね」
そのまなじりに、ゆっくりと涙がたまり始め、彼女が力なく瞼を落とすとその熱いしずくがこぼれ落ちた。
「今度こそ、死ぬまであなたのそばにいること」
その囁くような声は静寂に包まれた場の中に、深々と響いた。
「全部、叶った。全部叶ったから…」
だから私は死ぬんだわ、リヒテはそう呟いてかすかに笑った。
「――リヒテ」
目を閉ざして、かすかな呼吸を繰り返す腕の中の相手に、キーファはひっそりと声を落とす。
「リヒテ。じゃあ、俺の夢も叶えてくれる?」
キーファの独り言めいた呟きに、リヒテが億劫そうに瞼を開けた。
もう、目を開ける力さえ、なくなりつつあるのだ。
その顔にかかる乱れた黒髪をかきやってやりながら、キーファはそっと顔を近づけた。
「リヒテ、俺の願いはね」
十年前から変わらないたったひとつの望みだった。
「俺にお前を守らせて」
それは、叶えられなかった。
だから、今度こそと願っていたのに。
「俺とともに生きると誓って」
ずっと、ずっと、そばで。
「俺の、――妻になって」
涙で掠れた声は、それでも甘美な至福を宿していた。
「…キーファ…」
もうすでに周囲が見えなくなりつつあるのだろう、リヒテの手が弱々しく空を掻く。
気づいたキーファがその手を握りしめて、自分の頬に押し当てた。
「…リヒテ? 返事は?」
今まで誰も聞いたことのないような、〈獅子王〉の甘い声。
低く深く体の芯に沁み入って、否定なんて最初から考えさせもしないような。
それでも、この声は〈女神〉にとっては何の強制力も生みはしない。
ただ、心に思うさまを告げるだけ。
そして、彼女は答える。
「…はい…――」
小さな小さな、囁くような、たった一言の返事。
それでもキーファは輝くような笑みを浮かべ、リヒテも白茶けた顔に甘く、艶めいた笑みを刻んだ。
「じゃあ、奥方、誓いのくちづけだ」
〈獅子王〉がそう言ってわずかに頭を下げ、〈女神〉の唇をついばむ。
「夢、みたい…」
触れ合った唇の隙間から、吐息のようなリヒテの言葉がこぼれ、キーファが笑った。
「夢じゃない。だからリヒテ、」
触れる唇はまだ温かい。
それでも、わずかにふれていたかすかな呼吸が、なくなった。
今、この瞬間に。
目を閉ざし、唇に至福の笑みを浮かべたままのリヒテを抱いて、キーファはこらえ切れずに嗚咽を漏らした。
「俺もすぐ行く」
だから待ってて。
キーファの言葉は、リヒテの唇の上に呟かれた。
こののち、〈獅子王〉による捨て身の復讐(呪い)によって帝国は滅亡。
大陸の人類自体も激減し、歴史資料がほとんどなくて何があったか分からないという暗黒時代に突入。
再び正確な歴史が刻まれ始めるのは〈獅子王〉の死後、数百年経ってからだった。