第5章 約束の地・四国の阿波<その2>
「鳴門」の文字は何を語るのか。
ここで、第一章でご紹介した、「鳴門」の地名についてもう一度考えてみましょう。。「鳴門」の地名に使われている「門」の字。先にも記したとおり、この際の門は「と」と読みます。しかし、一般的には、「と」と読ませる場合、「戸」と書くほうがオーソドックスでしょう。しかし、何故か鳴門の地名には「門」の字が用いられています。これは何を示しているのでしょうか…。
実は「門」という文字は基本的には「と」とは読まない漢字です。試しにあなたのお手元にある漢和辞典を確認してください。筆者もすべての辞典類を確認したわけではないので絶対とは言い切れませんが、「門」の字の記述には必ずしも、「と」の読みは紹介されていないのです。
ただ、まったく読まない・読めないということではありません。特殊な読み方であると考えられるのです。とすると、本来ならば「なると」は「鳴門」とは表記されなかったはず…と考えられないでしょうか。ところが実際には「鳴門」の地名が残っています。これは何故なのでしょうか。
もうひとつ。「鳴門」の「門」の字の使用に疑問を感じさせる要素があります。それは瀬戸内海の名前です。そう、鳴門海峡につながる、というよりはむしろ一体化しているとも言える瀬戸内海は「瀬戸」であり「戸」なのです。「瀬門内海」ではないのです。これは何を語っているのでしょうか。
もっとも、「門」の文字の意味だけを考えると、「なると」を「鳴門」と表記することには十分な理由があるという見方もできます。なぜなら、「門」には、海峡など海流、あるいは河口などの水流のある場所という意味もあるからです。その観点から考えると「なると」は「鳴門」が正しいということになります。
しかし、筆者にはどうしても納得がいかないのです。「鳴門」であるならば、なぜ「なると」と読ませたのでしょうか。「なるもん」「なりもん」、あるいは「なるかど」「なりかど」ではないのでしょうか
また、水流のある所としての「門」の場合、実は土地の固有名詞に使われている例はほとんどありません。わかりやすい例を出せば、日本の古典史に名高い「百人一首」の中に次の歌があります。
由良のとをわたる舟人 かぢをたえ ゆくへも知らぬ 恋のみちかな
<曽禰好忠>
この上の句の「由良のと」は「由良の門」だとされています。しかしこれは「由良の門」という地名を表しているのではありません。「由良」の地から船出したところの海上といったほどの意味合いなのです。つまり、由良の地にある岬、あるいは由良の地の沖合といった類の言い表し方と同等と考えて良いでしょう。
つまり、この歌の場合、地理的状況が「門」でありながらも、詠み人の意識の中には「と」と読ませたい意識があり、「由良のと」とひらがな使用となったと筆者は考えます。その「と」はたぶん、「途」ではなかったでしょうか。
しかし「鳴門」はこの例とはまったく違っています。明々白々に、固有名詞としての地名なのです。この「と」の表すものとは…?
意味合いについて承知していただけたなら、ここで、「門」と「戸」、2つの漢字それぞれから受けるイメージをあなた自身の感覚で考えてみてください。どうでしょうか。「戸」より「門」のほうが大きなイメージを受けないでしょうか。もっと言うならば、改まった印象を受けはしないでしょうか。考えにくければ、こんな風に想像してみてください。「戸」の向こうにあるものと、「門」の向こうにあるもの。それは決して“同じではない”のではないでしょうか。「戸」の向こうにあるものより、「門」の向こうにあるもののほうが、より壮大に感じられはませんか。そして、こうした私たちのイメージ、それはそのまま、はるかな先人たちとも同じであったはずです。
また、こんなな考え方もあります。世界的にも有名なミケランジェロの大作「地獄の門」。これが「地獄の戸」であったならどんなイメージを受けますか?また、巨大で激しい急流を登り切った鯉は龍に出世するという伝説の舞台の「登竜門」。これが「登竜戸」だと…?
言い換えれば、鳴門の「門」の字は、鳴る潮を守り神とした特別な土地であること、またはその地域へ入っていく玄関口であることを表していた…筆者にはそう思えてならないのです。
少しややこしくなってきましたが…実は筆者は現在の「鳴門」の地名が誕生するに当たっては、先に「なると」の呼び方がまずあったのだと推測しています。そして、その表記はかつては「鳴都」だったのではないかと考えているのです。そう、潮の鳴る都、すなわち九州を出た邪馬台国の新しい首都という意味の…。さらに言えば「成都」の意味合いさえ持った…。それゆえに呼び方=読みは「なると」でなければならなかったのです。しかし、歴史の結果として「鳴都」は「成都」たりえませんでした。
なぜなら…
その後、邪馬台国は都をさらに遷都し、東征したためです。そう、阿波に築かれるはずだった新しい「邪馬台国」は目的半ばにして分裂、その主流は邪馬台国ではない新しい国を築くために畿内へと大移動していったのです。その大移動の主流派とは…言うまでもなく大和朝廷、すなわち現在の日本です。なお、このことについては、後ほどの章でくわしくご紹介していくこととしましょう。
大和朝廷の成立はそのまま、邪馬台国の消失でもあります。そして、これによって「鳴都」は「都」ではなくなります。ただ、遠い過去において、歴史の重要なターニングポイントの土地であったことは人々に語りつがれ、その記憶が少なくともある時代までは人々の心に刻まれていたはずです。それが「鳴門」という不思議な読みの地名の理由だと筆者は信じています。
なお、国の分裂と言う事態は、邪馬台国に関する諸々が歴史の謎となってしまっていることに深く関係していると筆者は推定しています。これは拙著において非常に重要な事柄です。ぜひ、覚えておいてください。
「眉山」とは、何を指すのか。
鳴門の地名について考えていた時、突然に筆者はある地名を思い出しました。それは徳島市内優美な姿で鎮座する「眉山」です。何かが筆者の記憶にチリリとひっかったのです。その引っ掛かりの正体を追って筆者が書棚から探し出したのは漢字学者・白川静氏の著書「漢字百話」です。
いささか焦り気味にページをめくって見つけたのは「その巫女は媚と呼ばれた」という文章です。「媚」には「び」とルビがふられています。そして著書には、呪力を高めるための装飾をつけた巫女が「媚」と呼ばれていたことが記述されていました。
さて…。
現在のところ、徳島市の眉山の名前は
眉の如 雲居に見ゆる 阿波の山
かけて漕ぐ舟 泊知らずも
という万葉集の中の歌からとったものとされています。
しかし、どうも筆者は釈然としません。眉のかたちのように見えるから、眉の山…?眉のような形の山はあえて歌に謳うほど珍しいものなのでしょうか?いや、なだらかな山なら大抵の場合、眉の形をしているように筆者には思えるのですが。 さらに、この「眉山」という地名も、日本各地にもっとあって良さそうに思えます。また、眉の如く…の山なら、なぜ「びざん」ではなく、歌そのままの「まゆやま」ではないのでしょうか?
徳島の地元の方々には思いっきり否定され、また怒りを買うことも考えられますが…筆はここであえて表明したいと思います。万葉集の歌をもとに…というのはまったくの後付の由来であると。万葉集の当該の歌が作られた時点ですでに、眉」をインスパイアさせる何らかの理由があったのだと。そこで浮上してくるのが先述した「媚」の字です。
四国本土に上陸した邪馬台国・卑弥呼の隊は、次々と後に続く後続隊の状況を見るためにも、見晴らしの良い高地に最初の陣地を築くことが必要だったはずです。その観点から考えると、眉山はさぞかし好適地であったことでしょう。
当然、そこでは無事な旅の感謝と遷都の成功への祈りの儀式も行われたはずです。つまり、正装・装飾で儀式を司る卑弥呼…すなわち「媚」が存在したのです。つまり「眉山」は「媚の山」であり、文字はどうあれ、「びざん」以外の何物でもなかったのです。(第5章その3に続く)