第5章 約束の地・四国の阿波
遷都の地に求められるもの。
九州に端を発した国家が支配地域を拡大していくために遷都したという邪馬台国東遷説。言うまでもなく、拙著はそれを根底においた文章です。そして、それをもとに、邪馬台国が歴史の中に消えた理由を探り出そうとする推論をまとめた文章です。
ではここで、邪馬台国はどこへ行ったかの主題から少しそれ、遷都ということについて考えてみたいと思います。もったいをつけるなという声も聞こえてこないではないですが、まぁ、しばしお付き合いください。
21世紀の今、もしも首都を遷都すると考えた場合、道路を造ることや建物をつくること以上に重要な事柄があります。それはライフラインの構築です。とりわけ、水と電気の確保、つまり水道と電線の整備は生存にも関わる重油な事柄であることは、幾多の災害の報道をみれば明白でしょう。
しかし、事、古代においては事情はまったく違ってきます。もちろん水の確保は生存に関わる重要事項であることは同じですが、だからといって、古代における水の確保は水道を整備させることではありません。
では、どういう行動が水を確保する術であるかというと、まず第一に水がある場所を見つけるということです。当たり前?そうですね、理屈では。しかし、実際にそれを実行することは、本当にそんな簡単なことでしょうか。
海水ではありませんよ。また、泥水状態のたまり水でもありません。飲むことができるのはもちろん、炊事や衣類を含む洗い物にも使え、できれば体も洗うことができる清潔で豊かな量の真水です。
水の確保の問題については、海路選択の章でちらっとふれました。しかし、移動路における水の確保は最低限を満たすことが最重要課題であり、その後、そこに多くの人々が永住する遷都地における水確保とはまったく事情が違ってきます。
なにしろ、行く先に集落をつくるのですから。それも小さな集落ではなく、首都となる大きな“街”をつくるのですから。(※当時の人々に「街」という言葉は無かったはずですが、ここではそうした概念の集落として、「街」と書いています。)
また当時はすでに稲作も行われていましたから、それを可能にするだけの水も確保できなければなりません。遷都地における水の確保が民族大移動の途上における水の確保とは、まったく桁違いの重要性を持つことがこれでおわかりいただけるでしょうか。
前章まで読んでこられたあなた。遷都の話と言いながら、水の話で終わりかと思われたかもしれません。しかし、実はこれこそがが拙著の主題へ入り口なのです。
約束の地の条件を満たした阿波。
※約束の地…旧約聖書に記されている言葉で、神がモーゼたちユダヤの民のために用意したとされる土地(国)を指す。これを語源として、現在では、コロンブスの大航海以降に起こったヨーロッパの人々のアメリカ大陸やオセアニア大陸への大移民における移住先など、宗教的な意味合いを持たない場合にも、この言葉が使用されている。
鳴門を玄関とする阿波、すなわち現代の徳島県。われわれの先人たちにとって、そこはどんな土地だったのでしょうか。これを検証していくことには、実は大きな意義があります。なぜなら、そこが先人たちにとって価値がない土地であったなら、理想の遷都地とはなりえないからです。逆に言えば、先人たちにとって魅力あふれる土地であったからこそ、阿波が「約束の地」であると信じられたはずなのです。
しつこいようですが、再度ここで言葉を重ねましょう。人類のみならず生きとし生ける者すべてにとって不可欠なもの。それは「水」です。そこで阿波、すなわち現在の徳島県なのですが、実は何を隠そう、徳島県は四国4県の中でも理想的な状況で水の恩恵に浴している地域なのです。
あれっ?でも、たしかあの辺って、いつだったか水不足でニュースになっていなかたっけ?そう思った人もいるでしょう。特に東日本に住んでいる人には、そう感じた方が多いことでしょう。しかし、間違えないでください。記録的水不足でニュースになったのは、同じ四国でも、徳島県の隣県の香川県です。
「でも、隣の県でしょう?だったら徳島県だって…」
ところが違うのです。
香川県がなぜ水不足になるのか、それは大きな河川が無いからです。そのため、香川県は名前こそ香川用水と言いながらも、その流域はほとんど徳島県土にある吉野川の水を大きな水源としています。いや、大きなというよりも、ほぼ“命の水”として依存しています。
もっとも、吉野川の水を水源とするための早明浦ダムは香川県でも徳島県ではなく、その上流に当たる高知県にあります。つまり香川県には水源も川もないという話なのですが、これは本題とは無関係なのでここまでの紹介としておきます。
香川県の水不足の話はさておき。とにもかくにも、徳島県は水の豊かな土地なのです。利根川の異名「坂東太郎」、筑後川を指す「筑紫次郎」、吉野川はこれに次いで、「吉野三郎」と呼ばれるほどに大きな川です。改めて日本の地図を見てください。日本全体の中に占める四国の割合のあまりの小ささにあきれる人もいるかもしれません。しかし、その小さな四国の中に大河として古今名を馳せてきた川が流れているのです。
考えてもみてください。現代社会でこそ、水道だけでなく、電気にガスに電話回線に、最近は携帯電話のためのアンテナなど、ライフラインと呼ばれるものは多様です。しかし、古代におけるライフラインは水のみ。それが確保されない場所であったのでは、いかに狩り易い獲物がいたとしても、定住には向かないでしょう。逆に言えば、狭い土地に大河が滔々と流れ、どこにいても水を手に入れやすい土地…古代の人々がそれに魅力を覚えないはずはないのです。
しかも全面は海の幸も豊かな海峡です。また、海からさほど遠くない位置に眉山という山もあり、古代ならイノシシや野兎、鳥類などの獲物も容易に手に入れることができたでしょう。しかも、それが決して広大ではない範囲の中で。
つまり、環境という観点から見れば、何故に阿波の地なのか、ではなく、他と比べて阿波の地を選ばないならば、それは何故なのかとさえ問われても不思議が無いほど好条件がそろっているのが阿波の地なのです。はるかな昔、邪馬台国の指導者たちが阿波の地を遷都の地に選んだこと、当然の帰結と言うわけなのです。
「阿波」の地名に潜む謎。
日本における辞書類の中で国語辞書と並ぶ重要な存在である漢和辞典。そのわりと早いページに記されている漢字の中に「阿」という字があります。唐突に何の話だと思われるかもしれません。一見、歴史には何の関係のないようにも思えるでしょう。しかし、これは非常に大事な事柄なのです。
そう。邪馬台国の真実を探るとき、避けては通れない手掛かりが漢和辞典の中に隠れているのです。もっとも、筆者自身、邪馬台国の謎を追う中でふとした拍子に気づいた小さな手掛かりなのですが…無視するには、それが暗示する真実はあまりにも大きいのです。
実は「阿」は、中国語において敬称のような役割を果たしています。阿父(→おとうさん)、阿母(→おかあさん)、阿兄(→おにいさん)などと使われるのがその典型的な例です。これは古代から現代まで、中国語において変わらない使い方です。
とすれば、遠い昔、遣隋使や遣唐使といった日本から中国へ留学生が渡ったよりもさらに早く、「阿」の字がその意味合い伴って中国から日本に伝わっていたとしても不思議はありません。とすれば、かつての日本においても「阿」が敬称的な文字として使われていた可能性も否定できません。
現代日本においては、ひらがなの発生などその後の日本の文字文化発達により、中国語にあるような「阿」の字の意味合いは薄れています。代わって「御」、ひらがなでは「お」がその役割を果たしていると考えれば、「阿」の位置づけやニュアンスがわかりやすいでしょう。
しかし、この「阿」が次第に「お」に位置を譲っていった事実は歴史の中に登場する女性たちの名前にその実例を見ることができます。
たとえば「阿」については「出雲阿国」。女性歌舞伎の祖といわれる女性で「出雲阿国」と読みます。彼女が生きていたのは江戸時代初期。つまりその頃はまだ、「阿」の字が使われていたことを示しています。しかし、読みはすでに「お」になっています。
面白いことに、ほぼ同じ時代の女性でかの有名な淀君の妹で江戸幕府二代目将軍・徳川秀忠の正妻・お江の方の場合、その「お」を漢字で書けば「於」。あいまいに臨機応変に漢字が充てられていった結果、「阿」が「お」、そして文字自体が敬称の意味合い含む「御」へと移っていった経過がここに見えるようです。
さて。
これによっては私が何を言わんとするか。そう。「阿」の字の意味を考えれば考えるほどに、悩ましい存在になってくるのが徳島県の古い地名「阿波」なのです。繰り返しますが、「阿」は敬称なのです。ですから、「阿波」を古い日本語で表すなら、「御波」ということになります。これほどまでに敬意と親しみを込めて呼ぶ「波」とは?
それは紛れもなく、海峡に渦巻く波、当時の人々の知恵と知識をこえた自然現象そのものだったのではないでしょうか。その敬うべき波を超えてたどり着くのは…そうです。拙著の冒頭に紹介した「鳴門」の地。そして、その鳴門を抱く阿波の地に他なりません。
こじつけに思えますか?
では、うかがいましょう。「阿」の字の意味合いと「阿波」という地名と、渦潮という自然現象の存在、これは単なる偶然ということでしょうか。では、「阿波」の「阿」はなぜ「阿」なのでしょうか。「亜」でも「吾」や「唖」でもなく。また、「あわ」はなぜ「阿波」なのでしょうか。「安房」でも「安和」でもなく。むしろ地名なら前の2つのほうが相応しく見えます。
また、渦潮という存在を考えれば、ともに「あわ」と読む「泡」や「沫」のほうが意味合いが合っているように思えます。なにしろ「波」には、凪のように穏やかな波だってあるのですから。
しかし、現実に古からあった地名は「阿波」なのです。いかがですか?これを偶然の産物と切り捨ててしまうことは、逆に暴挙ではないでしょうか。(第5章の2へ続く)