第4章 陸路に待つ、他民族という脅威
物資の輸送の利便性、野生動物や害虫、寄生虫の恐怖など、これまでにさまざまな陸路のリスクを紹介してきました。
しかし、そこはやはり太古の人々の旅。大自然の驚異に対する対抗力は我々現代人に比べてはるかに高かったことは間違いありません。これまで散々述べてきておいて妙な話ですが、ここまで述べてきた海路の利点はしょせん理由の一部でしかないと筆者は考えています。
というのも……実は陸路には、オオカミも熊もスズメバチも、寄生虫も比べものにならない恐ろしい存在が待ち受けていたのです。それは、他でもない、大移動に挑んだ邪馬台国の民と同じ『人間』でした。
当時、邪馬台国が日本列島の中でも大きな支配域を持つ大国であったことは間違いないでしょう。しかしそれでも。その支配はまだまだ全国に及んでいたわけではありません。少なくとも、この時点では、多様な部族がてんでに地域支配をしているという状況にありました。
記紀にも、大和朝廷十二代の景行天皇の息子・ヤマトタケルが九州南部へ「熊襲」という民族を征服に出向くという記述があり、これをそのまま受け取るならば九州全土すらも邪馬台国の支配下にあったわけではないことがわかります。
しかも、8世紀に編纂された記紀においてその内容が明確に残されたということは、大和朝廷と九州南部を支配下に置く民族との争いが決して小さなものではなかったことを窺わせます。
とはいうものの、阿波の地への遷都を決定事項とした以上、阿波との陸続きである四国は、ほぼその全域がこの時すでに邪馬台国の支配下にあったと筆者は考えます。でなければ遷都自体があまりに無謀な計画ということになってしまうでしょうから。
陸路を行くことは出雲の脅威の中を行くことだった。
四国を支配下に置くことで実現の度合いが一気に高まる阿波への遷都。しかし、対岸である本州、すなわち今の中国地方は、はたしてどんな状況にあったでしょうか。実のところ、大移動時点では、邪馬台国のが本州側にも及んでいたとは非常に考え難いのです。
その何より大きな理由が古事記・日本書紀の記紀に登場する大国主命の存在です。大国主命といえば、古代史ファンならずとも浮かぶのが「出雲大社」でしょう。そして日本神話の中でも有名な大国主命と因幡の白兎の話も。
一歩基本に下がって、古代史や神話に興味のない方にもおわかりいただけるように説明しましょう。
大国主命は古事記・日本書紀の記紀においては「大物主神」あるいは「大己貴神」といった名前でも登場しています。その存在が一番クローズアップされているのは、神武天皇が地上に降り立つ直前の国譲りについての話の部分です。簡単にご紹介すれば、次のような内容です。
但し、記紀においては、同じ内容が複数回にわたって微妙に違う内容で記されるなどの、資料としては解りにくい部分も多々あるため、総合的に見た上でその内容をかいつまんで…というかたちにはなりますが。
経津主神と武甕槌家目士の二神が葦原中国を平定するために天から使わされるが、その地には大国主命という者が支配していて天の意志に従おうとしない。
その理由として、大国主命は自分だけでなく、二人の息子も天の神による平定に従うことを承知しなければならないと言う。
そこで経津主神と武甕槌家目士の二神は、その力を誇示する大国主命の息子たちに恭順を迫る。息子の一人は、すぐに恭順の意志を示したが、もう一人は抵抗する。そこで二神がさらに迫った結果、抵抗していた息子は国を捨てて逃走してしまう。かくして葦原中国における天の神の平定成り…。
実は、天の神と大国主命とのやりとりには、ものひとつのバージョンがあるのですが、それについては、後々、改めてお話しすることにしましょう。
なにはともあれ。
陸路を選ぶことは、出雲に代表される異民族の支配地の只中を行くことに他なりません。中国地方の中でも瀬戸内海側、すなわち山陽地方が出雲の国の支配下にあったかどうかについては、はっきりしたことはわかりません。
しかし、いずれにせよ、地理的な状況を考えれば、出雲の国の力は中国地方全体にある程度及んでいたと考えるのが自然です。地域によって影響力の強弱はあったとしても。
それに比して。瀬戸内海の制海権を最初に握ったのが日本の歴史の中でも、悪名高い平清盛であったことは歴史学者の多くが認めるところです。言い換えれば、それ以前には瀬戸内海全体を支配した政権はなかったということでもあります。つまり、寄港地にするための地を四国本土と瀬戸内海に点在する島々の何か所かに確保しておけば海路の安全は十分に図ることができたわけです。
つまり、本州側を陸路でいく場合の最大の敵である大国主命の力が及ばない地域、脅威の無いルートがも瀬戸内海という海路だったわけです。
「道」はリスクと出逢う場所だった。
異民族の地を行くことの危険性をもっと具体的なかたちで説明しましょう。陸路というものは、平地はもちろん、草深く険しい山地や原野においてけもの道ができるように、自然に道ができていくものです。そして人間もまたそうした道を利用します。その結果起こるのは、人と人との鉢合わせ、出会いです。
もしもこれが、異民族・異文化との遭遇であった場合を考えてください。既知の友好的な相手であった場合は何も問題もありません。むしろ再会の喜びさえ生まれるでしょう。
しかし。もしも道自体が未知の土地にあり、出会った相手も未知の相手であったなら…。ましてやそれが、敵対勢力、あるいはその可能性が高い相手であった場合は…。そう、古代における道は便利であると同時に、思わぬ危険に遭遇する可能性も決して低くない場所だったのです。
なお、「道」は、当時の人々にとって、ある意味では異民族や獣以上に畏怖すべきものたちに出会う場所でもありました。21世紀の今でも田舎の道などに残る道祖神は、そうした「わからない」ものから自分たちの土地を守るものに他なりません。
そして同時に。道祖神の存在は、その道の先は“この道祖神を置いた者たち”の土地であることを他地域の人々に知らせる役割もはたしていたはずです。その頃は道祖神とはっきり呼べるものではなく、大きな石や樹木であるなど、目印として役割を果たすものに過ぎなかったでしょうが。それが時とともに、次第に特殊な形状や意味合いを持つ道祖神へと進化していったのではないでしょうか。
つまり、古代に人々にとっての道とは、それほどに特別な場所であったと筆者は考えています。にも関わらずその「道」を経て進む、すなわち陸路を選ぶというのは、あえて大きなリスクを選ぶということです。海路と比べ、はたして選ぶ価値はあったでしょうか。あなたは、どう考えますか。