第3章 <その1> 海を行く理と利
邪馬台国の船出。目指すは潮の鳴る海。
紀元世紀頃の九州・日向の地。夜明け前のまだ暗い中を、大地を離れてゆく船影があった。しかもそれは一隻ではなかった。一隻が出港すればまるでそれが続く船への合図でもあるかのように船影は次々と波間へ漕ぎ出してった。
21世紀の基準に照らし合わせれば決して大きい船ではないが、数十人が十分に乗り込めるそれは、当時の人々にとって十分な巨大船だった。
船影たちが目指す航路は瀬戸内海。船はほぼ東の方向に向いて波を切っていく。船上で立ち働く人々の顔はいずれも笑顔だった。時に小さな不安をその表情に浮かべる者も無いではなかったが、それさえも、怖れや悲しみからくる不安ではなく、未知なるもの抱く期待感との混ぜ合わせのような不安だった。
また、それらは人々の中に混じる年配の者のほど中にこそ多く、若者たちは誰もが陽気で、その陽気さを自らの力に代えたかのように活気に満ちてそれぞれが自らに与えられた仕事をこなしていた。
船は時とともにその数を増し、ついには船団と呼ぶにふさわしい数とになっていく。ちょうどその時、東の空から日が昇り始めた。
「日が昇るぞ!」
誰かの声が聞こえ、それに呼応するようにあちこちから歓声が上がった。船上の影たちは可能な限り、自らの仕事の状況が許す限り手を止め、昇る日に目をやった。
「我々を歓迎してくれてるんだぞ!」
誰かがいうとドッ歓声と笑い声が響いた。他の船でもやはり同じようなことが起こっているようで、歓声は海のあちらこちらからも聞こえてきた。
水先案内のために先頭をきっている船のすぐ後ろ、船団の中でもひときわ大きな船の舳先には中年の女性が考え深そうな若い男を脇に従えて立っていた。男が口を開く。
「素晴らしい船出となりました」
女が答える。
「神の託宣の通り。判断は間違っていなかったということであろう」
「御意。目指すはここより東方、阿波の地。渦巻く潮の向こうの地」
「そこに新しき国を築くことこそ、われ卑弥呼の役目…」
男は一瞬、自らを卑弥呼と名乗った女の横顔を見つめた。そしてその向きのまま片膝をつき、深々と頭を垂れた。
時折しも、昇る太陽はまさしく船団の行く手にあった。
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もちろんこれは、史実を忠実に再現した物語ではありません。しかし、時を遡ること千七、八百年前、つまり紀元2~3世紀の日本の地において、これに近い状況が展開されたと筆者は考えています。九州に端を発した邪馬台国はやがてその勢力の拡大を図るために、その視線を東方に向けたのでしょう。
しかし、最西端の地にある国が、それまでの自国よりはるかに広い東方の地を支配下に治めてゆくことは決して容易なことではありません。しかも、交通手段が現在よりもはるかに劣るこの時代。国の拡大を考えれば、勢力の中心地をもっと東に置く、すなわち遷都という判断は、生まれるべくして生まれるでしょう。
もちろん、その大きな決断は決して簡単なことではなかったはずです。反対の声も起こったことでしょう。発案から決断、そして実行までどれほどの時間を要したか…それは、筆者にも想像の及ぶところではありません。
しかし、現在までにわずかにわかっている古代史から推測するに、百年、二百年という長い時間がかかったとは思えません。おそらくは一世代から二世代、つまり30~40年程度ではなかったかというのが筆者の推測です。
もっともこの時、邪馬台国の国民のすべてが東へ向かったということもないでしょう。ただ、新国家を成すというその目的を考えると、政治の中枢づくにいた者たちはもちろん、新国家づくりに重要な力となる若者たちは、その多くが東へ向かう船に乗り込んだはずです。
ゆえに船団は希望と力にあふれていたことでしょう。またそのことが新しい国づくりという「国家と人」の長い旅に耐える体力にもなったであろうことは容易に想像できます。
彼らが海路を選んだわけは。
邪馬台国は新たな都となる阿波の地を目指して、現代で呼ばれるところの瀬戸内海を行きます。本州と四国に挟まれた内海は、波穏やかで船を大きく揺らすことはありません。また、季節を上手に選べば、暑くも寒くもない適温の中、嵐に見舞われることもなく、順調な船旅が続いていきました。
しかし、ここで疑問に思われる人もいるでしょう。なぜ海路なのかと。九州からほど近い四国の西側に上陸し、そこから陸路を目指せばよいのではないかと。
あるいは、関門海峡という狭い海を越え、本州の地に上陸するという選択をなぜしなかったのかと。
では、その疑問に答えるために、邪馬台国の時代と現代の違いについて考えていきましょう。
人の移動ということに視点を置いて古代と現代を比べると、その大きな違いに交通手段があることは言うまでもありません。
古代には、飛行機はもちろんのこと、鉄道も自動車もありません。そもそも道自体が獣や人が通ることで自然に踏み固められた、いわゆる獣道があるだけです。
昔々の人々は、どんな遠い所へでも歩いて移動していました。これは古代どころか江戸時代を過ぎ、ようやく明治維新以降、鉄道が導入されるまで当たり前のことでした。
馬に乗るという方法はありましたが、こちらは急ぎ旅の武士、身分の高い武士の移動などごく一部の例外に当たる交通手段。馬の他にも殿様などが駕籠に乗ったり、幼児が荷車に乗せられたりという場合もありますが、これとてその動力は人力、つまり「徒歩」あるいは「駆け足」なのです。これは、どんなに大きな荷物があったとしても逃れられない作業です。
そう、邪馬台国の民が東に向けての民族大移動に挑んだ際、海路を行く大きな理由のひとつとなるのが「荷物」の存在でした。
この邪馬台国よりももっともっと遠い昔、はるかなご先祖さまたちが狩猟生活をしていた頃なら、移動には大した荷物は必要ありませんでした。いや、日々が移動の連続、というより、獲物を追っての移動が生活であった頃には、持ち物と言えば、獲物をしとめるための武器だけだったかもしれません。なにしろ、食物は現地調達、衣類もはたして身に着けていたやらいないやら…。
しかし、邪馬台国が存在したとされる2~4世紀頃にはすでに農耕が行われていたことは確実です。それはそのまま定住生活をしていたことの証明であり、定住という生活を始めれば、それを快適・便利にするための生活道具は次第に増えていくものです。
衣類もこの頃はすでに、後世の着物(和服)の原型となる、けっこう複雑な製法の衣類がつくられていたと考えられています。それどころか、装飾品なども日常的に使われていました。そうした集団の大移動…それはそのまま生活の移動です。
これをもし、人々が個々に担ぎ、あるいは手に提げて歩いていくとすれば、どれほどの荷物が運べるというのでしょうか。ましてや民族大移動とあっては、自分の荷物を自分では持ちきれない幼い子供や高齢者もいます。
いや、車や鉄道のみならず、引越しサービスという便利なシステムがある現代社会おいても、小さな子供や高齢者のいるご家庭が引越しをするとなれば、働き手の世代はその最低限の準備に追われたりするもの。
また、引越しサービス自体が今ほどオーソドックスではなかった時代をご存じの方なら、その大変さは容易に察しがつくはずです。ましてや、自らの体で運ぶしかない昔々。荷物の運搬をどうするかは大きな大きな問題なのです。でも、たとえば大八車やリヤカー状のものがあれば、少ない人手で多くの荷物を運べるのでは?確かに、そうしたものがあれば、と思いますか?
ところが日本の歴史を繰れば、どうやらこの頃の生活には、まだ車輪の存在を見つけることができません。従って、やはり人が担ぐ、しかないのです。つまり、陸路を行くことは、荷物の運搬という負担を否応なく負うことなのです。
その点、海路であれば、一旦荷物を船に積んでしまえば、もう後は目的地につくまで運搬作業を行う必要はありません。途中の寄港地で一時的に船を降りるとしても、その際に必要な最低限の荷物を降ろすだけで済みます。つまり海路は、荷物の運搬という観点においては、非常に有効な手段なのです。
改めて考えてみれば、海路は陸路に比べ、古代と現代の格差が一番少ない移動手段です。陸路は徒歩や馬から鉄道、車へと、出発地から目的地への移動スピードを各段に速めただけでなく、その物流能力においても大きく変化しています。
これに対し、船は、乗せられる荷物の量が船事態の大きさに正比例するという原則を外れませんから、古代の人々でも大きな船を造ることで大量の荷物を移動させることができます。
また、現代社会においては、世界周遊豪華クルーズ等の例を見ればわかるようにゆっくり行くことが「船」の価値となっていますが、古代においてはこの轍は当てはまりません。
徒歩しかない古代においては船は陸路に引けをとらない速度で目的地へ向かっていくことができる移動手段でした。荷物を担ぎ続けるという負担無しに。そうです。邪馬台国の時代において船は唯一の乗り物であり、海路は何よりすぐれた交通路だったのです。
なお、陸路を選ばない理由は、荷物の問題以外にもありますが、それはおいおい説明を進めていくこととしましょう。(第3章 その2へ続く)