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最終推論 邪馬台国  作者: 六津 江津子(むつ えつこ)
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第11章 時間の中で消えゆくもの<その2>

沖縄と四国の違い


  最近、沖縄において旧石器時代の跡が続々と発掘されています。これは沖縄の気候風土に関係があります。

  沖縄は本土に比べ、はるかに台風の襲来数が多い地域です。この台風の風は海水を沖縄の大地に運び、地質をアルカリ性に近づけていきます。ポイントはここにあります。 

  太古の遺跡で一番ポピュラーなのが貝塚ですが、これは太古の人々が食べた魚介の貝殻や殻、骨などが固まって出土することからそう呼ばれます。しかし、基本的に日本列島は全体的に土壌が弱酸性なので、カルシウム類は溶けやすく貝塚のような遺跡が残りにくいのが本当ところです。

  しかし、その中にあって唯一の例外が台風銀座である沖縄です。土壌のアルカリ度が本州などに比べて高いことから、貝殻や甲殻類の殻などが旧石器時代の遺物が続々と発見・発掘されるという事態が起こっているわけです。


  振り返って四国。確かに高知県南部の太平洋岸はやはり大型台風に見舞われやすい地域です。しかし、香川・徳島・愛媛の3県は他の地域に比べれば、台風被害の少ない地域です。言い換えれば、土質がアルカリ性化し難く、貝塚が残り難い土壌だということです。

  しかも、瀬降りの人々は、山間部を生活の場としていましたから、食物の中に占める海産物の割合は決して高くなく、タンパク質は野生の動物を狩ることで補っていたことでしょう。

  それらの骨が彼らの移動に伴ってあちらこちらに少しずつ捨てられたとしたら、それを人の食事の痕跡と認めて発見することは。はたして可能でしょうか?もとより、山菜などの食事跡は長い年月を残るはずもありません。 これらの事柄もまた、四国に太古の人々の生活の歴史の痕跡を見つけにくい理由のひとつだと筆者は推定しています。


  さらに言えば…。

実のところ、5世紀以降の数百年の間、むしろ邪馬台国の存在を表すものが意図的に破壊されていったという可能性もすら否定できません。それも、邪馬台国末裔の人々自身の手によって…(この理由については後でご紹介します)。そう考えれば、今なお、邪馬台国の存在を明確に証明し得る遺跡や遺物がでないことの理由に充分に説明がつくのではないでしょうか。


末裔たちの心からも消えていった母国の気配。

しかし…。

  ここまでいろいろ述べてきたものの、物理的な痕跡が見つけられないことは、所詮、現代の視点から見ての結果論に過ぎません。なぜ、これほどまでに邪馬台国の存在が「謎」であるかの説明にはなっていないことも、筆者は充分に承知しています。そうですね。結論から言うなら…謎は人の心が生んだと申し上げましょうか。

  邪馬台国を母なる国としながらもそこから分国独立した倭の国が発展していく過程において、邪馬台国はその存在自体が隠され、否定されるようなっていった経緯はこれまでに述べてきた通りです。

  しかしそれは、あくまでも国の上層部における政治的判断による処置でした。それに対し、庶民の心はどう邪馬台国から離れていったのでしょうか。


  崇神天皇が倭の未来のために出雲を選んだことは、当然、当時の邪馬台国にも知らされたことでしょう。その際の、卑弥呼の後継者及び側近たちの悲しみと動揺は如何ばかりであったでしょうか。

  ただ、悲しんでばかりはいられないのも事実です。なぜなら、倭に捨てられた以上、邪馬台国の存続すら危ういものになってくる危険性は大いにあるわけですから。

  卑弥呼と側近たちは、とりあえず、それまで以上に山間の深いところへと国の拠点を移したはずです。これは、その時点で取りえた最善の策であったでしょう。

  同時に、下知によって集団を小さくし、分散して生活することを国民に命じたはずです。そのほうが、万が一、邪馬台国の民に討伐の手が迫ったとしても発見されにくく、逃げおおせやすいでしょうから。

  また、こうした分散と並行して、卑弥呼の住まいなど、指導部の存在を悟らせるものはできるだけ破壊してその場を去ったことでしょう。追ってのための手掛かりを残さないために…。そしてここに、その後長く続く「瀬降り」としての生存が始まったわけです。


 ここからは筆者の推測の域を出ませんが、年に数回程度、一定の場所に集合し、倭の国の動向や生活に関する情報交換を行っていたのではないでしょうか。また、再会を祝しての祭りのようなうれしい騒がしさもあったかもしれません。

  しかし、やはり残酷なのは時間の流れです。分散と漂泊の生活は、卑弥呼に一極集中していた忠誠心や敬意を次第に希薄にしていきます。ただそれでも、「自分たちは他の人々(里人=倭の人々)」とは違う存在であるという意識だけは子や孫に引き継がれていったはずです。なぜなら、邪馬台国はやはり長い時間、倭を恐れ続けていました。いつか自分たちを攻め滅ぼしにくるのではないかと。

  ゆえに、自分たちが何者であるかをあいまいにしたまま、里人とは一線を引いた関わり方を継続していったのです。

  そして時間はさらに過ぎていきます。そうするうち、倭からの武力による迫害の恐れは次第に瀬降りの心から消えていきます。しかしそれは同時に、子子孫孫に伝える事柄の中から、“自分たちが何者か、自分たちはどこから来たのか”が次第にかき消されていくことでもありました。もっとも、恐れが無くなることで、その理由も忘れ去られるのは、これもまた、当然の帰結と言えるでしょうが。(第11章その3に続く)


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