第10章 地名に潜む邪馬台国の気配<その4>
ここからは、類似の地名ではなく、筆者が推論をめぐらした結果、どうにも気になる地名として浮上したものをご紹介していきます。
□吉野
あまりにも有名になりすぎて見過ごしてしまうのですが、福岡県の吉野ケ里遺跡、徳島県の吉野川、奈良県の吉野…。それほど特殊な地名ではないので3県以外にも「吉野」の地名は散見できるのですが、地域において大きな存在としての地名になっているのは、福岡・徳島・奈良の「吉野」だけです。単なる偶然でしょうか。このことには本当に、何の意味も無いのでしょうか。
□宮崎県宮崎市の阿波岐原
九州の地を出て四国へ向かった卑弥呼たち。目指すべきは阿波の地。今風にいうならその壮行会、九州の地に残る者との送別会が盛大に行われたと考えるのは自然なことでしょう。そして、その証は何らかのかたちでその地に残されたはずです。「阿波岐原」…“阿波”への道への“分岐”の原…壮大なドラマが浮かぶ地名ではないでしょうか。
□魏志倭人伝に記されている「一支国」
□徳島県の(旧)一宇村
「一支国」は現在の壱岐島を指しており、魏志倭人伝では「一大国」と記されているのは誤記ではないかと考えられています。しかし、九州のどこかを指していることはほぼ間違いないようです。
しかも、邪馬大国の場所をさぐるために現時点で一番重要な資料とされている魏志倭人伝に記されている以上、無視することができないのは明白でしょう。その「一支国」の「支」字がある時、「宇」と誤記さ、それがそのまま地名として残ってしまったと考えられます。
もっとも、魏志倭人伝いうところの「一支国」が実はそのまま「一宇村」である、という可能性も皆無とは言えないのですが…。
※ある意味では「類似」の部類かもしれませんが、「一支国」が現在のどこに当たるかが特定されていないため、こちらの項目とします。
□高知県大月町の頭集
何とも興味深い地名です。しかも、全国ではほかに例を見ない珍地名のようです。筆者は、これは邪馬台国からサンカへと継承された特別な地名であると考えています。普段離れて暮らし、折々に頭目たちが集まって近況を報告しあい、決め事を確認しあう…貴の系譜から陰の民族となっていった人々の苦労と悲しみがこの地名には秘められているのではないでしょうか。
□脊振(せふり/佐賀県神埼市)
「サンカと邪馬台国」の章でも述べていますが、筆者が邪馬台国の末裔であると確信している山の民のサンカの人々は自らを「瀬降り」と称していました。これは、“瀬戸内海から降りた…”の意味を持つのではないかと先に述べてきましたが、言葉としてのルーツはこの佐賀県の「脊振」かもしれません。
この「脊」の字は「脊髄」の「脊」の字に同じで、“中心になる重要な事柄”の意味合いを持ちます。「瀬降り」とは、この「脊」の意味合いと海を越えての遷都という歴史的事実が合わさった結果の民族名なのではないでしょうか。
□眉山(眉山/徳島県徳島市)
詳しくは、阿波・鳴門の章でも述べていますが、もとは「媚山」であったと筆者は推定しています。媚はこれのみで巫女などを指す言葉となります。その巫女とは?
□日向市(ひゅうがし/宮崎県)
第3章の邪馬台国の船出の項で、船は日向の地を…と記しました。これは単なる思いつきではありません。そのストーリー中にも物語った通り、東、すなわち、日が昇る方角、同時に新しい国の日の出に向かうという意思がその地名に残されたと考えたからです。地名が指し示す“真実”の一例として挙げておきます。これもまた、地名が語る歴史の謎へのヒントに他なりません。
□美馬(みま/徳島県美馬市)
現在は美馬市になっていますが、地名として昔からある名前です。興味深いのはその由来です。これは、忌部大神がこの地を訪れた際、ここで馬に草を食わせたことにちなむとなっています。この忌部大神なのですが、面白い所に名前が登場します。スサノオノミコトの乱暴狼藉に怒った天照大神が岩戸の中に閉じこもり…という話が記紀にありますが、この時、半裸で踊った女神とともにバカ騒ぎを盛り立てた男神が忌部大神、別名・太王命なのです。筆者が拙著で述べてきた天照大神と卑弥呼の関係性を考えると、なんとも意味ありげな地名に思えてきます。
また、「馬」は邪馬台国の“馬”の字に同じですし。漢字の歴史をさかのぼると「馬」は「むま」と発音されていたかもしれないことがわかります。「ま」「む」「み」…長い時間の中で変化して伝えられる範囲としては充分に可能性があるのではないでしょうか。
□杣友 姓(そまとも せい/徳島県)
地名ではなく、名字で「そまとも」と読みます。この「そま」は山でクラス人々、すなわち山岳民族を指す「杣人」の「そま」でしょう。珍しい苗字に属する名前なのですが、実は杣友さんの大半が徳島県の住人です。現在他県に在住している杣友さんも、ルーツをたどれば徳島県ではないかと考えられています。というより、「杣友」の苗字自体が徳島県の発祥であることは、どうやら間違いないようなのです。
そう、「杣友」は、徳島県限定の苗字とも言えるわけです。これを、サンカ、すなわち、四国に残った邪馬台国々の人々と関係づけて考えることには無理があるでしょうか。いえ、むしろ、邪馬台国が分離し、その一部がやがて大和朝廷となっていく歴史の中で、初期にはやはり、相互の関係を円満に保つための連絡役が存在したはずです。そうした特殊にして重要な役割が呼び名として残り、やがて苗字となっていった…川の流れのように自然な成り行きではないでしょうか。(第10章その5に続く)




