第9章 出雲と邪馬台国に何があったか<その4>
青谷上寺地(鳥取県)と邪馬台国を結ぶもの。
倭、出雲、邪馬台国…巴紋のようにからみあう3つの民族と歴史。追っていくうちに筆者はもう一つ、気になる古代文明の記録にぶつかりました。
その文明の栄えた場所は鳥取県内の青谷上寺地遺跡。平成10~13年の間に本格的発掘が進められ、数多ある出土品の研究調査が現在なお進められています。
これまでの発表によると、この青谷上寺地遺跡に人々の生活が発生したのは弥生時代前期の紀元前200年頃のこと。その後、この文明はなんと西暦300年代、すなわち4世紀頃までの500年間に渡って続いていたと結論づけられています。
3世紀といえば、邪馬台国の存在と重なる時期…。この時間的一致はもちろん気になる要素ですが、同時代に日本各地に弥生文化が幾つか存在したことを考える
と、それだけを以て青谷上寺地と邪馬台国の関わりを考えていくことはできません。注目すべきは、青谷上寺地遺跡からの出土物です。
青谷上寺地遺跡からは獣骨や人骨、また土器などいかにも遺跡といった遺物が数多く出土していますが、その内容の一部を知った時、筆者の関心を大きく引いたものがありました。それは、精巧な木製品の存在です。
この精巧さについては、テレビのドキュメンタリー番組において現代の木工作家に、その再現に挑戦してもらうというかたちで検証が進められたのですが…人間国宝の腕を以てしても、その再現に難儀するというほど高いレベルの完成度を保っていたのです。
また、違った角度で面白い技術もありました。出土品の中には、一見、大きめの彫刻刀、あるいはカンナの祖先とも思える道具がるのですが、これがなんとも不可解。柄の部分が木製で先に鉄の刃が付けられているのですが、この刃の部分が奇妙に階段状に曲がっているのです。
なぜこんな形を…と思える形状なのですが、実際、人間国宝がその道具を使って当時の木製品を再現しようとすると、現代の道具よりはるかに作業がスムーズに進んでいきます。
このことから、当時の道具の奇妙な形状が使い勝手を考え尽くされた合理的形状、ある意味、当時としてはハイテクな形状であることがわかるのですが…この技術、おもしろいことに、後世にまったく伝わっていないのです。つまり、青谷上寺地限定の技として、3世紀から21世紀の現在まであまりに長い長い時間を土中で眠っていたわけなのです。
さて、ここで思い出していただきたいのがサンカの存在です。サンカの章において述べた通り、彼らは木工に巧みな技術を持っていたことがわかっています。その技はどこから来たのか…。もちろん、山中で暮らす中で自然に身に付き、その内容が高度になっていったと単純に考えることもできます。しかし、それで推測を断ち切ってよいものでしょうか。
そうです。筆者はサンカの木工の技は、青谷上寺地に住んでいた人々の木工技術を源流とするものだったと考えているのです。
もちろん、「木工技術」だけを根拠にこの結論を出したわけではありません。実は青谷上寺地遺跡からは、数々の遺物以外に、通常の生活では考えられないレベルの大量の人骨が固まって出土しています。しかもそれらはどうやら死亡時期を同一にしているようなのです。これは、この地に大きな戦乱があったことの証拠とは考えられないでしょうか。その戦乱の相手は、筆者が考えるところ、山陰の覇者・出雲の国…。
ではなぜ、青谷上寺地の人々が出雲の勢力と戦わなければならなかったのか。この頃、青谷上寺地は邪馬台国と友好関係にあったのではないでしょうか。そうであれば、地理的には隣国でありながらも、敵国と友好な関係にある青谷上寺地は出雲にとっては、まず最初に攻撃すべき集団であったはずです。
しかも青谷上寺地遺跡の住人は、その優れた木工技術を生かし、大陸との交易も盛んに行っていたと考えられています。その先見性もまた、出雲の国にとっては、危険を感じさせる要素だったはずです。
そう考えれば、友好関係にあった邪馬台国と青谷上寺地との間に人や技術の交流があり、その中で木工の技も伝えられたというのは大いに頷ける話でしょう。
しかし、出雲が青谷上寺地と交流することなくその殲滅を企図したことで木工の技の主流がまず途絶えました。次いで、支流として技を受け継いだ邪馬台国も後を追うように歴史の中で消えていきました。
考えてを進めるほどに、優れた木工の技が後世に伝えられることなく終わってしまったことの辻褄が合うというものではありませんか。これを、こじ付けと言い切れますか?(第10章へ続く)




