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最終推論 邪馬台国  作者: 六津 江津子(むつ えつこ)
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第9章 出雲と邪馬台国に何があったか<その3>

蘇我と物部。政治対立の陰でうごめいていたもの。



  ここまででこんな疑問を抱いた方もいるでしょう。確かに、親・邪馬台国は非主流となっていったのだろうけど、その存在自体を隠し、否定するとなると、過剰反応なのでは…と。それにこたえるためには、当時の社会状況を振り返ってみなければなりません。

  これまでにご紹介した通り、古事記・日本書記は8世紀前半に編纂が完成しています。着手はたぶん、7世紀後半頃。これは言い換えれば、今に伝わる日本の歴史が“創られた”あるいは“創り直された”のがこの頃であるということです。

この時代、日本は文化面の多くを古代中国より伝播した知識や思想に頼っていました。しかし、この時期から少し時計を戻してみると、実は日本国内には大きな文化対立が起きていました。

  片方は大陸伝来の仏教擁護派で、もう一方は日本古来の神道を重視する派です。仏教擁護派は歴史上、悪名高い蘇我氏が中心で、神道派は物部氏でした。この「物部」の名前に何かを思い出しませんか?そう、「大物主命」です。

  とすれば、面白い図式ができてきます。崇神天皇以降、天皇邪馬台国派を追放した出雲勢力。しかし、今度は自らが追われるかもしれない危機が…。神道派は当時の政治的実力者であった物部氏を立てますが、仏教擁護派の首謀は政治力にも策謀にも長けた蘇我一族。形勢は次第に仏教派に傾いていきます。

  結末から述べるなら、神道派はかろうじてその地位を保つことになりましたが、政治力の主権は完全に仏教擁護の蘇我氏に軍配が上がりました。その後の日本には仏教がしっかりと根付くことになっていきます。


  この対立、庶民にはともかく、政治権力の争いとしては、日本の歴史における大きなポイントなのですが、実はこの対立に高みの見物を決め込んでいた人々もいました。いや、高みの見物ではなかったかもしれません。古事記や日本書記を読み込むと、高みの見物どころか、双方の対立を煽った気配すらあるのです。それも、自らは火の粉をかぶらない位置から…。

  そして、この人々は蘇我と物部の勝敗が決して後、今度は自分たちが勝者を抑え込むという行動にでたのです。この勝者とは当然、蘇我一族ですから、それを抑え込んだ者とは…そうです、中大兄皇子たちですね。つまり、卑弥呼や邪馬台国への思慕を密かに残そうとした持統天皇へとつながってくる人々です。

  しかし、先にも述べたように、中大兄皇子たちが行動を起こした時には、邪馬台国の亡霊たちにとっては時遅しというべきか、中国伝来の仏教文化はすでに日本に十分に定着していました。

  また聡明な持統天皇ですから、せっかく安定し始めた世に、亡霊を甦らせるが如く「邪馬台国」を復活させることが決して賢明な策ではないことも充分にわかっていたはずです。倭を経て大和となって数百年前。今更、鬼道を政治や信仰の軸とする体制に戻すことなど、とてもできない相談だったことでしょう。

  いや、あるいは。

出雲の勢力が大きくなりすぎることを押しとどめただけでも、持統天皇の一派としては、十分な成果だと思っていたのかもしれませんが…。


  こうした、勝った敗れたの立場が複雑に入り乱れた5世紀から8世紀頃の日本。この状況を示唆するものとして、筆者はある事柄に着目しています。まだみなさんの記憶に新しいと思いますが、2013年10月2日、伊勢神宮の遷宮が執り行われました。そしてこの年、出雲大社の遷宮も迎えました。

  ご存じの方も多いでしょうが、出雲大社の遷宮は60年に一度です。これは誠に興味深い事実といえます。60年とは干支が一回りする周期に同じです。また「還暦」祝いに表されるように、60年を大きな周期としてとらえる数え方は12年一回りの干支を五行(この世界をつくる元素たる木・火・土・金・水)と組み合わせた結果に生まれたものです。そしてこの五行とは、古代中国から伝えられた思想とされています。

  これはつまり、本来は純粋な日本の神道の系譜であると思われる出雲大社の遷宮の周期に仏教の思想が採り入れられている可能性があるということです。

一方で伊勢神宮。遷宮の周期は20年です。しかも、その遷宮に際しては、対比的ともいえる面白い違いがあります。出雲大社の遷宮に際しては神殿の屋根の材料である「茅」をはじめ、できるだけ旧い材料が使われます。それに対し伊勢神宮の遷宮では何もかもが真新しい材料で工事が進められるのです。筆者にはこれが何とも比ゆ的な事柄に思われてなりません。

  もうひとつ注目すべきは、伊勢神宮の遷宮が制定された時期です。資料によれば685年。これは天武天皇の世です。そう、持統天皇の夫の。そして、最初の遷宮は内宮が690年、外宮が692年。こと時はすでに持統天皇の在位となっています。そして伊勢神宮の祭神は言わずとしれた天照大神。そしてそれにお仕えするのは「斎王」と呼ばれる巫女…。

  日本の歴史の中で数少ない存在である女性天皇の御世に、女性を祭神として、人との結び役ともいえる巫女を配した神社の遷宮が始まったというのは、単なる偶然なのでしょうか。もちろん、遷宮制定は天武天皇の時代ですが、そこに妻たる人の意向が働いていても不思議はありません。むしろ、夫を看板に自らの意思を形にしたと考えるほうが自然でしょう。


  そろそろ筆者の言いたいことがおわかり頂けた頃でしょうか。そうです。時代の変遷の中で邪馬台国は日陰の存在となっていきました。その存在を正式に認め、復活させることは世の混乱を招きかねない暴挙とまで言えたことでしょう。しかし、その存在がかつて確かに「あった」ことは後世に遺したいと考えた人々もいました。

  それはまた、“過去の亡霊”たちへの追悼でもあったはずです。つまり記紀編纂の着手と伊勢神宮を国の祭神と定めての遷宮の決定は、邪馬台国の存在自体を神格化することで後世に示唆するとともに、現実の民族としての存在を消し去る節目だったと筆者は考えるのです。そしてその時から邪馬台国は、日本の歴史における“見えざる存在”となり、かすかな痕跡のみを残すこととなっていったのでしょう。

  なお、おまけのような話になりますが…。記紀の中において、神様たちが飲食をするシーンを見ることはできません。それどころか、剣を呑んで子を成したりしています。にも関わらず、今日、さまざまな神事において人間の食する「食べ物」が神様もお召し上がりになるとの意図で捧げられるのも、考えてみれば不思議なことです。

  そして神様の「食事」に関することにこだわってみると、ここで思わぬ名前が浮上してきます。伊勢神宮、すなわち皇大神宮には、神事に関する決まり事などを記した「止由気宮とゆけぐう儀式帳」という書物(書類)があるのですが、その中に次のような記述が残されています。


  雄略天皇の御世、その夢枕に天照大が立ち現われ述べられた。我が身独りでは安らかな気持ちで食事をすることができない。だから、丹波の国にいる豊受大神を呼び寄せてほしい。


  豊受大神といえば、言うまでもなく伊勢神宮外宮の祭神です。そして、その呼び寄せを雄略に懇願したのは、神であって、同時に人である存在ともいえる存在の女性…。当たり前のことと思っていたことを疑ってみるところから何かが見えてくることがあるものです。

  そして…さらに推論を深めていくなら、丹波国の在であったという豊受大神の本当の出自は、もっともっと南西の地、淡路島の向こうであったという可能性もまた、否定しきれない話となるのではないでしょうか。(第9章その4へ続く)


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