表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
最終推論 邪馬台国  作者: 六津 江津子(むつ えつこ)
20/31

第9章 出雲と邪馬台国に何があったか<その2>

結ぶ倭と出雲、邪馬台国の終焉への分岐。


  水面下で倭に影響を与え続けた邪馬台国の存在。しかし、やはり時間は変化の大きな要素になります。倭が大和になっていく過程で、邪馬台国の影は次第に薄れていきました。

  その一方で、着々と進む倭と出雲の一体化。そして国の拡大。立場の安定を得た出雲の勢力の政治への発言権が増すのは当然の成り行きで、それにつれ、倭内に生き残っていた親・邪馬台国派は次第にその居場所を無くしていくことになります。それはそのまま、卑弥呼から綿々と伝えられてきた鬼道が怪しげな邪教の如きものととらえられ、日陰の存在となっていく道のりでもありました。

  かくして歴史の闇の中へと葬られていく邪馬台国の存在。これこそが、邪馬台国の記述が不自然なほどに記紀に残らないことの大きな理由ではないでしょうか。

ただ5世紀の雄略天皇の世にはまだ、邪馬台国はなんとか国としての命脈を保っていたと筆者は考えています。あるいは、雄略天皇が親・邪馬台国派だったのかもしれません。ゆえに、邪馬台国の支配地、すなわち四国の山間部を制圧した国の数には入れなかったのでしょう。それが前の章で紹介させていただいたワカタケル大王(雄略天皇)の上奏文における不自然な制圧国数のわけです。



邪馬台国存在の証拠を遺そうとした人々とは。


  歴史の闇へと追いやられた邪馬台国。しかし、その存在の示唆は思わぬかたちで後世に残されることになります。記紀の編纂です。

  その編纂年が712年、720年とされている古事記と日本書記ですが、編纂事業自体の着手を命じたのは、それより20年以上前に在位した女帝・持統天皇、あるいはその夫で前天皇である天武天皇ともいわれています。現代社会と違い、何もかもがゆっくりとことが進められていた時代のこと、歴史書を編纂するという事業に数十年を費やすことはむしろ当たり前と言えますから、これは大いにうなずける話です。

  なお、日本には、記紀以前の古代書がかつて存在した可能性があるのをご存じですか。天皇記・国記などと呼ばれていたのではないかとされているその古代書の編纂者は、なんと蘇我入鹿。そのため、大化の改新によって中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)の軍勢に敗れ焼け落ちた蘇我方の屋敷とともにすべてが灰になったと言われています。もし残っていたなら、その内容はいかなるものだったのでしょうか。

  このことと関係があるかどうかはともかく、筆者は他にも、日本書記の中に気になる部分を見つけています。中大兄皇子とその兄の大海人皇子(後の天武天皇)を産んだ宝皇女たからのひめみの。後の皇極天皇、復位しての斉明天皇ですが、問題はこの父親。茅淳ちぬ王と言う人なのですが、どうも出自がはっきりしていません。にも関わらず、天皇家へ娘を嫁がせることができたのはなぜなのでしょう。出自を明確に語ることができない理由が何かあったのでしょうか。

  いずれにせよ、現時点では古代史検証の最善の資料であるはずの古事記と日本書記…どうにも、不思議で謎と疑問の多い書物です。



持統天皇の心中にあったものは。


  記紀において天照大神が重要な存在となっていることについては、持統天皇の意志が大きく働いているとする見解があります。筆者もこの説は大いに支持するところです。

  しかし、持統天皇と天照大神の間には大きな違いがひとつあります。それは「婚姻」の有無です。持統天皇は女帝であり、夫は天武天皇。夫亡き後、その代理のように皇位に就いた人です。聡明な女性であったようで、統治者として力を発揮する一方、自分の後継には自らが生んだ草壁の皇子の子、すなわち孫の軽皇子(後の文武天皇)を天皇に就けるべく尽力し、大和の国のその後の安定を図りました。

  一方、天照大神には子はいましたが、夫たる存在がありません。また、その「子」も摩訶不思議な力で生んでいます。なにしろ「神様」であって人間ではないわけですから、たとえば日本書記中では、「剣を食べ、生まれた子を…」とさらりと記されています。

  なお、この時、大蛇退治で有名なスサノオノミコトも、男性神でありながら同じ方法で子供を産んで(作って?)いますから、神様が子供をつくるというのは、人智の常識を超えた作業であるのも当然なのかもしれませんが。


  さてふりかえって、卑弥呼です。彼女は人間ですが、現在までの歴史的推察では、巫女として独身で生涯を終えることが求められたとされています。いわば、卑弥呼も天照大神も、未婚というよりは“非婚”の象徴といえるでしょう。

  そこで、持統天皇は既婚者で子を成した自分自身と、非婚で子も成さない卑弥呼とを結ぶ架け橋のような存在として、非婚でありながら子を成した存在としての天照大神の話を遺すことで、その向こうにある卑弥呼の存在を後世に伝えようとしたのではないでしょうか。ただし、非婚にも関わらず子を成すということを、神の成す奇跡の作業として記すことで、そのストーリーに合理性を持たせて。

  言い換えればこれは、持統天皇の世にあっては、まだ邪馬台国の存在が人々の記憶に残されていたことを示す事柄となります。しかし、同時に、忘れ去られようとしている、あるい“なかった歴史”として排斥され始めようとしていた時代でもあったのでしょう。だからこそ持統天皇は卑弥呼が、邪馬台国がたしかにあったという事実を、それとははっきり表さないかたちで遺させようとした…それが記紀であったというのは、うがち過ぎな見方でしょうか。(第9章その3へ続く)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ