第9章 出雲と邪馬台国に何があったか<その1>
この章に至るまでに、拙著では邪馬台国と山の民サンカや、弘法大師との関わり、そして邪馬台国という国の分国について語ってきました。
しかし、この時点でもまだ肝心のことは語れていません。肝心なこと…そう、それは邪馬台国が「歴史の謎」になってしまった理由、すなわち拙著における主題です。では、いよいよこの章で事の深層、歴史の真相に迫っていきましょう。
前の章で語った分国の時期を筆者は3世紀頃と推定しています。そしてその後、100年ほどは新しい国・倭(この時点では)と邪馬台国の間には平和で静かな時間が続いていったはずです。しかし、時は過ぎて第10代崇神天皇の頃に、その後の「大和朝廷」につながる大きな嵐が訪れます。
事の発端は、倭と出雲の国の争いです。全国制圧を目指す倭にとって、山陰を拠点にしながら中国地方に広大な勢力域を持つ出雲は決してそのままにはしておけない存在でした。しかし、互いにその武力を認め合う二つの国は、小さなつばぜり合いを経ながらも決定的な勝敗決定にはいたらずここまできていました。
しかしある時、崇神天皇はついに決断します。刻満ちたりと。それまで危うい均衡を保ってきた両者の関係についに決着を付けるべき時が来たのです。
この両者の対決の経緯は実は非常に明快なかたちで後世に残されています。そうです。古事記に、日本書記に記されている天上の神々と出雲の主である大国主命(大物主神、大己貴神とも)とのやりとりがそれです。拙著の第4章の“陸路の脅威”も思い出していただければ、さらにわかりやすいかもしれません。
なお、記紀の中においては、大国主命は神々の力に敗れ、あるいは説得に応じて国譲りをするわけですが、実は大国主命の登場はここで終わったわけではありませんでした。
ただ、次の話に進む前に、ここで記紀に記された重要な事柄にふれておかなければなりません。その事柄とは次のような内容です。
天の皇孫が大国主命に対して言った。
「あなたがこれまで行ってきた治政は今後、私たちが代わって行おう。だからあなたは魂を司る神事のことを受け持ってください。それを承知してくれるなら、私はあなたのために広大で立派な宮を建てましょう」。
これは日本書記の中の大国主命と皇孫、すなわち初代の神武天皇のやりとりの1パターンです。これ以外に、力で大国主命を追放したというパターンもあるのですが、筆者は、この条件交渉の部分にこそ、重大な秘密が隠されていると考えています。では、再び、日本書記の内容に戻っていきましょう。
崇神天皇(第10代)の世。国内には疫病が大流行し、人が次々と死んでいった。そのため民衆の間に不安と不満が広がり、小さな内乱が各所で起こった。天皇は天照大神と倭大国魂を祀ったが世は一向にやすらがない。ついには八百万の神々招いて占ったところ、一人の姫命が神憑りとなった。そして言われるのに、「我は大物主神である。我を祀れば世は自然にやすらぐだろう」。
そこで天皇は大物主神を祀ったが一向に効果が無い。いよいよ困り果てていると天皇の夢に大物主神が現れて「我の子の大田田根子に我を祀らせよ。されば、世はやすらぎ、他国平定も成るだろう」と語る。そこで、天皇は大田田根子を招き、大物主神を祀ったところ、たちまちに世はやすらいだ。他国の平定も進むようになった。
この内容を読み取る限り、一時は倭に国譲りをしたはずの出雲の主の大国主命が亡霊のように復活して治世に影響を及ぼした如くに受け取れます。しかし、筆者はそれに対し大いなる疑問を持っています。
神武天皇降臨の際の出雲の国譲りは、本当にあったのでしょうか。ここで筆者断定します。「否」と。但し、正しく言えば、この時点では、ということで。
そうです。力による出雲勢力の追放、あるいは交渉による国譲りは神武天皇の時ではなく、ずっと後世の崇神天皇の世だったというのが筆者はさまざまな検証の結果に導き出した答なのです。
では、筆者の推定に基づいて、その経緯を語っていきましょう。出雲との決着に乗り出した崇神天皇でしたが、さすがに相手は強国・出雲。一筋縄ではいきません。一進一退を繰り返した結果、崇神天応はひとつの決断を下します。条件を付けた上での和平です。その条件とは、治世とそれを補佐する神事とを倭と出雲の両者で分け合うというものです。つまり、記紀においては神武天皇降臨の際の出来事として書かれている出雲の国譲りがこの時点で行われることになったのです。
しかし、この条件で和平を締結するには、実のところ、倭側に大きな障壁がありました。邪馬台国の存在です。
母なる国である邪馬台国と倭の関係は、崇神天皇の世であるこの時代にはまだまだ密接なものがありました。なぜなら、政治においては絶対的な存在であった倭でありながらも、信仰という角度からみれば未だ、邪馬台国時代から流れる鬼道の精神が人々の心の主流を成していたからです。
しかし、神事を出雲の勢力に任せる以上、鬼道に頼るやり方を国のかたちとして残していくわけにはいきません。崇神天皇と側近たちももちろん、そのことは充分に承知していました。その上での出雲への条件提示だったわけですから。もっとも、あるいは崇神天皇自体が倭における反邪馬台国派だったのかもしれないと仮定すると、この決断には大いに納得がいくわけですが。
天皇の心中いずれにせよ、この時に倭の国は、鬼道や呪詛が政治を支える国から政治が支配して神事が補佐する国へと大きく舵を切ったのです。それは同時に、邪馬台国の“終わりの始まり”の瞬間でもありました。
信仰の軸を出雲に移した以上、邪馬台国はその存在自体が倭にとって微妙なものとなってきます。そのため、邪馬台国に関する口伝や記録がこの頃から、避けられ始めることとなっていきました。また、それまで暗黙の了解事であった治外法権が無実化していくことも当然のことでしょう。
もっとも、邪馬台国としても、この事態を受け、一気に民族として壊滅したわけではないでしょう。倭の中にも少なからず親・邪馬台国派は存在したでしょうし、政治に無縁の庶民階級にいたっては、出雲の神道への変化の意味すらもよくわからないというのが当時の状況ではなかったでしょうか。
そのため、出雲との和平後も倭の国には、鬼道と卑弥呼の存在への信仰がその影響力とともに根強く、但し、密かに残っていたのではないでしょうか。そしてそれらは折々に残影のように、世に影響を与え続けていたのではないでしょうか。
記紀に記された大田田根子云々という記述はまさにその不安定な社会状況を語るものなのではないでしょうか。
なお、出雲との関わりの話が2度に分けて記されたのは、5世紀にあった事実をもっと前の倭の創世記にあったことだと信じさせることも意図していたと考えて良いでしょう。(第9章その2へ続く)




