第8章 二つに分かれゆく邪馬台国<その2>
ワカタケル大王の上奏文が語るものとは。
歴史の謎を解くには傍証も重要な要素となる場合が少なくありません。一見、まったく無関係に見える状況が実は重大な事柄を指し示していることがあります。その傍証として私が挙げたいのが5世紀頃における日本の社会状況です。
古代歴史に関心の深い人ならピンとくることと思いますが、3~6世紀、その名称では古墳時代と呼ばれる時代。その数百年間は歴史の謎を数多く内包している時代です。
いえ、もっと言えば、政治的にも文化的にもほとんど何もわかっていない時代で、日本史における「空白の時代」とまで呼ばれています。こうしたことを前提に…。
1987年、埼玉県で発見された遺物は専門家の間に一大センセーションを起こしました。専門家たちを色めき立たせたのは埼玉県行田市の古墳群の中の一つ、稲荷山古墳から出土した「金錯銘鉄剣」です。これ自体もちろん、貴重な歴史遺物ですが、問題はこの剣に刻まれた文字の内容でした。
文字数が115文字という、剣に刻まれる文字数の多さも際立つその内容を解釈してみると…。
“辛亥の年にこれを記す”から始まるその文章は、剣の主の自らの身分の名乗りへと続き、さらには、自分はワカタケル大王を補佐する者であり、大王の寺にいる今、これを奉納する…となっていました。
問題はこの「ワカタケル大王」です。このワカタケル大王はどうやら第21代天皇の雄略天皇(5世紀中頃の在位?)ではないかというのが現在までの古代史の通説です。しかし、同時に雄略天皇はその実在に疑問符が呈されてきた人物でもあります。それがこの金錯銘鉄剣に刻まれた文章によって、実在の可能性が一気に高まってきました。となると、同時に資料としての重要性が浮上するのがその時代に「倭の武王」から中国の宋の皇帝に送られた上奏文です。
「東は毛人、を征服すること55国、西は衆夷を服すること66国、渡って海の北を平らげること95国」と、倭の武王は自らの力を上奏文に記しています。現在までの専門家の研究では、毛人は後の蝦夷、すなわち当時まだ東日本の大半を住処にしていたアイヌ民族をはじめ、東日本に暮らしていた民族全体を指し、西の衆夷は熊襲、すなわち九州を支配地とした民族、渡って海の北とは朝鮮半島を指しているのではないかと考えられています。
この上奏文を信用するならば、ワカタケル大王、すなわち雄略天皇が在位中の5世紀、大和朝廷の勢力は九州から東日本まで及んでいたということになるわけですが、筆者的として気になるのがその表現です。どうにも腑に落ちないものを感じてしまうのです。
東日本、九州、そして朝鮮半島…。倭の武王がいるのは畿内。なぜ、ここに山陽・山陰・四国・九州と地域を示す記述がないのでしょうか。「西は…」ですべてまとめに記述していると考えることもできますが、支配範囲の広大さを強調するなら、分けて記述したほうが良さそうなものです。現に朝鮮半島については、「渡って海の北」なのですから。
また、征服した国の数から考えても奇妙です。「渡って海の北95国」とありますが、当時の朝鮮半島はその大半が他国です。最近、その朝鮮半島で日本型の古墳が発掘され話題にもなりましたが、その支配域は決して広いものではなかったことも確かでしょう。
しかし、その朝鮮半島において「95」国です。それに対し、西は「66」…。この55国というのは、当時まだまだ東日本の制圧が進んでいなかったことを考えると不思議ではありません。ですから、表現が「東に」だけであっても不思議はなく、朝鮮半島の「95」と対比しても「55」は現実的な数字と言えるでしょう。
しかし、そう考えると、「西は…66」は少なすぎないはしないでしょうか。この理由はひとつしか考えられません。すなわち「66」とは「衆夷」を主とする一地域、すなわち九州のみの数字だということです。言い換えれば、上奏文には四国及び山陽・山陰に関する事柄が記されていないということです。これはどういうことでしょうか。
面白いことに古事記、日本書記ともに東日本の制圧については、逆らう者たちがいたので退治したという感じの比較的さらりとした記述となっています。具体的な征服・制圧の話はほとんど登場しません。
これに対し、現在の山口県の西端から九州にいたる地域を支配する者たちの制圧については、けっこう詳しく記されています。
とりわけ古事記における熊襲制圧の話は、第12代景行天皇の息子であるヤマトタケルが女装をして相手の総大将の首を取ったなどと、だまし討ちにも近いような手段を使ったことさえ記されているのです。
また、これは次の章でご紹介することになるのですが、出雲の民族とのやりとりも実に詳しく残されています。これはつまり、それだけ熊襲や出雲が大和朝廷の歴史において無視することができないほどの存在であり、日本全土支配の大きな障害であったことを物語ることに他ならないでしょう。
しかし…。
その中において、なぜかまったく日本書記にも古事記にも、実在の気配すら見せない存在があることをお気づきですか?
そうです。邪馬台国です。
いやそれは、邪馬台国が熊襲や出雲よりずっと早く滅んでいたからでは、と思われますか?しかし、古事記も日本書記も、西暦でいえば0年以前の「神代」の話から始まっているのですよ。
金印などの物証から、邪馬台国が存在したのは2~3世紀頃と推定されています。つまり、古事記や日本書記にその存在がまったく記されていないというのは、実はそれ自体が非常に不可解なことなのです。
これによって筆者が導き出したのは、邪馬台国も卑弥呼も確かに存在したが、歴史の記録の上では、その存在が「意図的に隠された」という結論です。
邪馬台国は確かに存在していたのです。大和朝廷が生まれたその時にも。そして、大和朝廷が勢力を伸ばしていく際にも、まだ、存在してと筆者は考えています。ただ、国としての大和朝廷との争いは無かったのです。なにしろ、大和朝廷にとっては“母なる国”なのですから。
この事実はおそらく、というより間違いなく数百年間は、大和朝廷の上層部の人々に語り継がれていたはずです。母なる国であった国を「決して攻めない」という約束事とともに…。
だからこそ、5世紀になってなお、飛ぶ鳥を落とす勢いのワカタケル大王も、その制圧の力を四国には及ぼそうとしなかったのです。そう、この時代においてなお、邪馬台国の末裔たちが住む四国の山間部は、踏み込むことをタブーとされる地域だったのです。
なお、少し前の文章で邪馬台国の守旧派が海岸線を捨てたと書きましたが、これについては、5世紀の時点で阿波の海岸線に古墳が数多く刻まれていることや、製塩業が営まれていた気配があることをもって事実の裏付けとしたいと思います。(第8章その3へ続く)




