第8章 二つに分かれゆく邪馬台国<その1>
袂を分かってさらに東へ
まだ夜の明けきらぬ港を出てゆく船影があった。
「住みやすい土地だったな」
「仰せのとおりです。しかし…」
「わかっている。我らはあの土地に留まるわけにはいかない」
「確かなご判断、ご決断でございます」
「これから東も西も統括してゆくには、たとえ波穏やかな内海であっても、大きな障害になる」
「御意」
「もはや呪詛や亀卜の力だけでは、各地の豪族たちを抑えることは難しい…」
一方、港と船影を見下ろす小高い丘には…。
神輿のような玉座に座るのはまだうら若い、しかし、その年齢にしては落ち着きのある風情の女。輿のすぐ後ろには、女より10歳ほどは年上に見える男を筆頭にして、数人の年かさの男女が控えている。
やがて、玉座の女の口からもれでたかのような声が発せられる。
「ご武運を…」
しかし、その後に続く『お祈り…』という言葉からは次第に声が消え、最後は彼女の口元だけがかすかに動いた。彼女の声が後ろに控える男女に聞こえたかどうかはわからない。だが、リーダー格らしい男の視線が女の言葉の刹那、一瞬、虚空に注がれたようには見えた。
そうする間にも船団の影は一隻、また一隻と波の向こうへ消えていく。見送る者も、見送られる者も、悲しみをそれぞれの眼に浮かべつつ、決してそれとわかる別れの仕草をしない。それが当然の約束事であるようにただ、次第に大きくなる波の隔てを無言で見つめるばかりであった。
だがそんな静かな別れの中に、一閃の光のようなシーンもあった。まだ、十三,四歳に見える少女が突然、崖の突端まで駆け出した。そして、これ以上は無いというばかりに大きく大きくその手を船団に向けた振った。時を経ずして一隻の船の舳先に白くゆらめくものが見えた。布だった。旗と呼ぶにはその形がまだ不正確な白い大きな布。それがまるで少女の手の動きに合わせるように左右に揺れた。揺れながら、海の彼方へとその姿は小さくなっていった。
それは、後に「邪馬台国」と呼ばれた国の終わりの始まりであり、同時に、やがて「大和」と呼ばれ、さらに時を下っては「日本」と呼ばれる国の実質的な黎明でもあった。
************************************
もちろんこれは、阿波・鳴門の章と同様、歴史事実を描いたものではありません。しかし、やはりこれに似たシーンが西暦3世紀の頃のある日に展開しただろうことを筆者は信じています。
すなわち、邪馬台国の分国。この時、邪馬台国は2つの国に別れたのです。ひとつは、卑弥呼の後継者を支配者と仰ぐ守旧派、もうひとつは別の人間を新リーダーとする独立派というかたちで。
そしてこの日、卑弥呼擁する守旧派が残った四国を捨て、独立派はさらに東の畿内へと旅立っていったのです。しかし、「独立派」とはいっても、それは決して少人数ではありませんでした。むしろ、守旧派を凌ぐ人数が新リーダーと行動をともにしたのです。
なお、この後、四国に残った邪馬台国の人々は、山の民となっていきます、その一方で、東へ旅立った独立派はやがて畿内において新しい国を築くことになります。大和という国を…。すなわちこの時が、日本の歴史における大きな分岐点であったと、筆者は数々の傍証と推論の結果として確信しています。
邪馬台国はなぜ国を分かったのか。
さて、これまでの話で大いなる疑問が生じた人も多いかもしれませんね。独立派が畿内に向けて旅立ち、大和、すなわち今日の「日本」となっていったことは一歩譲って認めておくとして、そのことと四国に残った邪馬台国の人々が山の民になったことの因果関係はどこにあるのだと?生活するには絶対的に暮らしやすく、移動や交易にも有利な海岸線を捨て、山地へと移っていった理由は?
この疑問を答えを求めるには、ここで一度、邪馬台国遷都の理由を考える必要があるでしょう。
邪馬台国が九州の地を出て四国・阿波の地に遷都したのは、国の拡大を目指した行動だったはずです。となれば、国としてさらなる発展を目指していくことは当然のことでしょう。
ただ、変化や発展の途上においては、指導者たちの意志が必ずしもつねに一致するわけではありません。しかも、邪馬台国の支配体制については、巫女である卑弥呼(後にはその後継者たる巫女)を頂点に置いてはいたものの、卑弥呼による完全独裁制が敷かれていたとは考えられていません。
むしろ、卑弥呼の占術による結果に基づき、あるいは、結果をどう解釈するかについても複数の指導者が合議制で決定していたのではないかとかする見解が主流となりつつあります。そして筆者も、これに賛同しています。そこでです。
ある時期から、占術による支配体制に異論を唱える勢力が邪馬台国内部に台頭してきたのではなかったでしょうか。国を大きくしていく力は占術ではなく、政治力であり武力であると考える者が。
そしてその勢力は同時に、阿波の地からさらなる東遷を国に求めたのではないでしょうか。最終的に日本全土を掌握することを目的として。
これに対し、早急な拡大を良しとはしない者たちも当然いたでしょう。そちらは、日本全国を支配することより、他地域の民族との融和をまず第一に考える者たちであったと考えられます。
実はこれは、無理やり引きずり出した意見ではありません。たとえば、インカ帝国の例をはじめ、未だ解けていないさまざまな古代文明滅亡の謎。現在のところ、気候変動がもたらした自然災害や環境変化に対し、信仰による国家体制が対応できず、支配力を弱めたという見解が大勢を占めています。
ひょっとして同じようなことが邪馬台国にも起こりかけたのではないでしょうか。その結果、卑弥呼の支配体制に不安と不満を持つ層が台頭し、急速に人心をとらえていったとしたら…。
ただ、筆者は、血で血を洗うような激しい武力騒乱は起こらなかったのではないかと考えています。これは、邪馬台国がもともと合議制の国であったことと合わせて考えれば納得していただけるでしょう。
また、大きな武力衝突があったなら、さすがにその痕跡、あるいは、それを想像させる伝説が何らかのかたちで残っていると考えられます。
しかし、少なくとも阿波、すなわち徳島県おいて、古代における武力衝突を推測させる遺物は発見されていません。このことから筆者は、阿波に来てからの邪馬台国は、反乱の可能性という危険要素を内包しながらもなんとか平和を保ち続けたと考えています。
しかしながら、多くの不満分子を抱えた、すなわち運営上に大きな問題を抱えた国がそのまま長い安定を保っていくことが難しいのもまた事実。この頃に国を治めていた卑弥呼の後継者と、彼女を補佐する指導者たちは当然、悩み、会議を繰り返したことでしょう。それは決して数年などという短い期間ではなく、数十年という単位だったのではないでしょうか。
そしてついに卑弥呼と補佐者たちは決断したのです。「分国」というかたちを。ただ、この分国の際、武力的優位はやはり、東遷を考える独立派にあっただろうと筆者は推定します。その自信があればこその東遷であり、日本全土支配という意思であったでしょうから。言い換えれば、独立派が圧倒的な武力を盾に、優位な独立果たしたといういきさつがあったというのが筆者の考えるところです。
この結果、四国に残る守旧派は、独立派のつくる新しい国家を無条件に承認することを余儀なくされたのでしょう。しかも、生活地域として恵まれ、他国との交易にも有利な海岸線を捨てることで独立派に対する戦闘意志の放棄を表明します。その見返りとして、畿内へ向かった独立派は守旧派の国、すなわち邪馬台国を攻撃しないという約束を交わしたのではないでしょうか。(第8章その2へ続く)




