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最終推論 邪馬台国  作者: 六津 江津子(むつ えつこ)
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第7章 弘法大師とサンカを結んだもの<その4>

そして88カ所霊場は生まれた。



  伝説というかたちで日本全国、北から南まで各地に行脚の気配を残す弘法大師空海。しかし、実際に弘法大師がその足で歩いたのは近畿地方一円と四国全体のみだっだようです。にも関わらず、全国に大師伝説が残っているのは後世の高野聖の口伝えによる伝説の創作・宣伝活動によるものでしょう。

  もっとも、筆者はここで全国の大師伝説の否定論を展開しようというわけではありません。重要なのは、大師自身が実際に歩いて回った地域とその理由を考えることなのです。すなわち、近畿と四国。

  近畿一円を回ることは、当時の社会状況を考えれば当然のことです。都は奈良にあったのであり、当時の近畿地方は文化の中心地だったのですから。政治勢力を味方につけるという意味でも才に長けていた弘法大師が都を軸にした地域で布教活動を行ったであろうことはあまりに当然のことです。が、それに加えて、なぜ「四国」であったのか?

  それも当たり前、なにしろ弘法大師は四国の出身なのだから。そう考える読者もいることでしょう。しかし、考えてもみてください。大師の足跡は四国全体に残されているのです。

  これが、たとえば弘法大師が当時の都から一番遠い土佐(高知県)南端の足摺岬周辺の出身なら、都へ向かう道すがら四国を横断する形にもなり、立ち寄った場所の数もけっこうなものになったでしょう。なにしろ、当時のこととて徒歩の旅なのですから。


  しかし、なのです。


  弘法大師空海の生まれた善通寺は香川県にあるのです。それも寺の名前と同じ善通寺市市内。この善通寺市自体は内陸にあるとはいうものの、隣接する丸亀市と多度津町は古くから港町として栄えてきた海沿いの町です。つまり、都へのルートを考えれば、丸亀市あるいは多度津町を経て、対岸の岡山県に渡り、そこから近畿方面へ向かうか、丸亀から東へ進み、讃岐(香川県)東部の港から本州へ渡る、あるいは、阿波(徳島)まで東進し、そこから紀伊半島へ渡るという3つのいずれかの選択になります。

  つまり、弘法大師が故郷と都を行き来しただけならば、彼の足跡は瀬戸内海沿いの地域にしか残らないはずなのです。しかし、大師の足跡が残るのは「四国全体」…。ここはやはり、弘法大師があえて四国全体を、明確な意思を持って廻ったと考えるほうが妥当でしょう。そしてそれこそが、「四国には何かがある」ことの証明なのではないのでしょうか。


  ここで、この章の冒頭でちらりとご紹介した四国88か所霊場の話に戻っていきましょう。

  四国88か所霊場は、弘法大師が設定したという説がありますが、実際はそうではありません。後世の修行僧や高野聖などが弘法大師を慕い、足跡を追って歩いた道が次第に巡礼ルートとして固定、認知されていった結果であるというのが事実に近いところです。

  少し、横道にそれるかたちになりますが、ここで確認のために88か所霊場のルート設定について少しお話しておきましょう。実は、徳島県の札所1番から香川県の88番まで設定されている現在ルートが最初に明快に提示されたのは、弘法大師が生きた時代よりも1千年ほども後世の江戸時代のことです。

  仕掛け人は旅の僧侶である真念。彼は偉大な先達である弘法大師を慕い、その教えをひろげるべく、自らの寺を持たず、生涯を布教の旅で過ごしました。その布教行動のひとつの形として、四国に残る弘法大師ゆかりの地を書物に表し、紹介したのです。書物の名は「四国遍路道指南しこくへんろみちしるべ」。

  この書物は、幸か不幸か、はたまた、彼の大師への憧憬が理解されたのかどうかはともかく、江戸時代のベストセラーになります。その結果、四国霊場巡りは、お伊勢参りや金比羅参詣といった、宗教色よりも観光の色合いの濃い旅のスタイルとして定着していくこととなったのです。さらに余談を重ねれば、香川県牟礼町の洲崎寺には、仕掛け人の真念の墓が今も残されています。


  なお、江戸時代にはすでに、邪馬台国の存在は一般庶民からほとんど忘れられているのが実情でした。そうした状況の中で紹介された「弘法大師ゆかりの地」としての四国。それはそのまま、後世における四国のイメージとして定着していくこととなったのです。


ここで筆者の結論を申し上げましょう。


  四国88か所霊場各所、すなわち現在、札所たる神社仏閣が鎮座する場所は、かつて、山の民サンカと弘法大師の接点の地であったと。

  弘法大師生存の頃、サンカはすでに里人とは一線を画し、異質な者たちという認識を里人たちに与えていたのでしょう。とすれば、サンカの行動圏と里人の生活圏との間には「結界」にも似たラインがあったはずで、里人たちは結界の向こう側へ行くことを忌む状態にあったはずです。

  また、サンカの側も、結界を超えて里人の地へ下ってくることはできる限り避けていたことでしょう。そうした社会状況下にあって、里人であるどころかエリート層の出であった弘法大師がサンカの人々は会うことは、人目を忍ばなければならない行為であったろうことは容易に推測できます。

  そうした両者が交流を持とうとする場合、どんな地を選ぶことが最善でしょうか。それは、双方が行動できるぎりぎりの線上です。すなわち、結界上ほど適切なポイントは無いのではないでしょうか。


つまりこういうことです。


  弘法大師は19~30歳の11年間、サンカの知恵や知識を求め、習得するべく四国各地において彼らと会合や交流を重ねていきます。その場所はつねに、サンカと里人を分ける“結界”上に設定されることになります。そうしたポイントの中には、“この季節ならあの場所”“今の季節ならここ”といった言わば“いつもの場所”というものもが次第に決定、定例化されていきます。

  それが大師の知り合いや里人のうわさなどによってなんとなく人々の記憶に残されていきます。その後、弘法大師を慕う高野聖など語る噂を求め、追って四国を巡ります。その大師の後追い人の中に、江戸時代の僧侶・真念がいた…。


  四国=邪馬台国説の提唱者の中には、弘法大師が邪馬台国の存在を後世に知らしめるために設定した暗号のようなものだという意見が持つ人々身います。しかし、ここまでの筆者の推論をお読みいただけば、それがナンセンスな意見であることがおわかりいただけるでしょう。

  そうです。弘法大師は邪馬台国の存在をそれと意識して後世に伝えようとしたのではなく、豊かな知恵を持つサンカという民族との交流に最適の場所を選んでいった結果、88の札所を巡るラインが描き出されていったのです。

  もちろん、彼らが日本の歴史の中になんらかの重要な意味を持つ人々であったことは弘法大師も感じていたことでしょう。ただそれを現代人の認知するところの「邪馬台国」の民ととらえていたのかというと、それに関しては筆者もまだ、結論を出すに迷いの最中にあります。

  もっとも、大師の行動そのものが真念という人を経て、結果として、邪馬台国の存在を示唆するものとなったということは否定しませんが。(第8章に続く)


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