第7章 弘法大師とサンカを結んだもの<その3>
弘法大師の功績と能力の陰にあったのは…?
弘法大師の歴史的功績の中にも、サンカとの繋がりを感じさせるものがあります。香川県最大のため池である満濃池の修築が弘法大師空海の偉業のひとつであることはご存じの方も多いでしょう。これには、空海が唐で学んだ建築学が活かされていることはもちろんでしょうが、はたしてそれだけで、先人がずっと工事の失敗や不完全による決壊を繰り返していた事業が成功するでしょうか。
そこで、筆者は考えるのです。やはりこの陰にもサンカの存在があったのではないか、弘法大師が彼らから得た知識や知恵があったのではないかと。
これまで書き連ねてきたことを振り返るまでもなく、サンカが四国の山間部を漂泊し、その地形や地質、季節ごとの気候、環境などの知識を充分に持っていただろうことは、読者の皆さんにも容易に想像できるでしょう。
もしも弘法大師が満濃池修築事業の際にサンカの知識を生かしていたとしたら、その上で、唐の国から学び帰って建築・土木の知識を重ねたのだとしたら…それまで誰も成功し得なかった事業の成功も、ある意味では不思議でも奇跡でもないと考えられないでしょうか。もちろん、だからといって、大師が並みの人材であったと言っているのではありません。
言うまでもなく弘法大師はある意味での天才です。しかし、その超人的能力の陰に山の民の知恵と知識が隠れていたことと考えることは、決して大師の功績を貶めるものにはならないと筆者は考えるのですが…。
続いては、言語習得能力というの面から弘法大師とサンカのつながりを考えてみましょう。
大師は都で学校に通っていました。確かに、サンスクリット語については当時すでに日本国内でテキストのようなものが作られていたようで、それらを使い、独学で学ぶことは不可能ではなかったでしょう。むしろ当時の実情としては、サンスクリット語よりも中国語のほうが独学することが難しい状況にあったようです。
しかも大師は当時の学生としては決して授業への出席率の良い真面目な生徒ではありませんでした。それどころか、中途で退学もしているのです。
加えて、大師が唐の国にいた期間は留学生の滞在期間としては、際立ってというよりは非常識と言えるレベルのたった2年間です。そんな大師が遣唐使という中国留学の際、中国語を自在にあやつり、仏教を研究し、帰国後には数々の経典や書物を訳すことができたのは何故なのでしょうか。
もちろん、言語習得能力の高い人は3か月程度で滞在国の言葉をしゃべることができるという意見もあるでしょう。しかしそれは、あくまでも「生活に困らない程度の最低限」の言語を身に着けられるということです。
つまり、専門の、それもその国の最高レベルの知識階級に勝るとも劣らない言葉を身に着けていた弘法大師については、その「最低限」の例にはあてはまらないのではないでしょうか。そこで筆者は考えるのです。この疑問をとく鍵こそが「邪馬台国」であると。
前章でもお話ししたことですが、1784年に福岡県志賀島で発見された金印のことを思い出してください。「漢委奴国王」と刻まれた金印。これは言うまでもなく、邪馬台国と古代中国との間に国家交流があったことの証拠です。
国家的な交流があるということは、当然、相手の国の言葉に堪能な人間がいたということでもあります。現代社会における国際交流と同様に。そしてその中には、母国を離れて交流の相手国で生活していた人々もいたはずです。
なにしろ、当時は中国大陸と日本間の船旅自体が命がけ。一旦、海を渡れば、再び逆向き船旅に挑むことは決して簡単なことではありませんでした。それゆえ、遣唐使や遣隋使で中国に渡り、そのまま帰国できなかった日本人留学生は少なくなかったといいます。これは逆にいえば、中国から日本に渡ってきて、そのまま故郷への帰国叶わず、異国の土となった人々がいたとしても何ら不思議はないということです。しかも少ない人数ではなく。
そうした人たち、またその子孫たちが「邪馬台国の民」の混じりながらも、故国の記憶や文化を口伝などによって子子孫孫に繋いでいたとしたら…。
もとより弘法大師h四国の出身です。何かの機会に、四国の中に中国語を母国語として自在に操る人間が存在することを知ったとしたら…。いや、ひょっとしたら弘法大師はあるいは幼少時、すでに中国語に接していた可能性すらあります。そして長じて、それの習得に励む…その時点で大師の気持ちの中に留学という思いがあったかどうかはともかく、中国語を学ぶことがいずれ大いに役立ってくることを見越していた可能性は大いにあるでしょう。
そして満を持して学んだのは、ネィティブの中国語。だとすれば彼がその後に渡った唐の国において言葉に不自由せず、異常な速さで膨大な知識を我が物にするという奇跡的功績を収めたことにも、納得がいくというものではありませんか。これははたして、無茶な仮定なのでしょうか……。
全国に残る不思議な大師伝説の陰にも…!
もうひとつ、サンカと弘法大師の関わりを想像させる要素があります。それは大師が四国のみならず日本全国各地に残した数々の奇跡の伝説です。しかしその前に、邪馬台国の支配体制について少し述べておかなければなりません。
邪馬台国の支配者は言うまでもなく卑弥呼です。また、卑弥呼亡き後は卑弥呼の血縁者ではないかと推測されている女性がその地位を継いだと言われています。この卑弥呼、あるいはその後継者がどんなかたちで国を治めていたか…これがここで語っておかなければならない前提です。
古代史ファンの方なら周知の事実ですが、邪馬台国は「鬼道」の国でした。鬼道とは、亀の甲羅を火にかけてその割れ方で選ぶべき答えや方針を決定する「亀卜」を軸とした、いわば「占術」信仰です。邪馬台国を治めていた卑弥呼はこの占術や呪術を司る巫女であり、それを国を支配する力としていました。
この鬼道の思想は、当然、四国に遷都した際にも継続されていたはずです。なぜなら、鬼道を捨てることは国家体制を破棄することに等しいわけですから。ということは、やがて山の民となったサンカにも鬼道は伝え続けられたと考えるのが自然です。
そしてそれは、時代を下った8世紀、すなわち弘法大師が生きた時代においても、サンカの中に脈々と伝えられ続けていたはずです。弘法大師はこの不可思議な力についても、高い関心を抱いたことでしょう。
但し、筆者は弘法大師が鬼道の思想をそのまま受け入れ、全面的に信じたとは思いません。なにしろ一種の天才です。占術や呪術を盲信するのではなく、まずは、その存在意義を考えたでしょう。そして明晰なる頭脳はひとつの答えを見つけだします。不可思議を信じる人の心に地質学や植物学、建築・土木学など、現代にも通じるいわゆる科学的な知識をうまく組み合わせれば、それは民衆心理に動かすための大きな起爆剤になると。
かくして日本各地に残っているのが、弘法大師が杖で地面を叩いた途端に泉が湧いた、弘法大師に所望されてそれを断ったために果物が食べられなくなったなどなどの不思議な伝説…というわけです。
ああ、そう言えば…。
弘法大師が雨乞い祈祷をした途端、日照りから一天にわかにかき曇って恵みの雨が!という伝説もあちらこちらに残っていますっけ。雨乞いの祈祷…ここにもなんだか卑弥呼の影が…いかがでしょうか?(第7章その4に続く)




