第7章 弘法大師とサンカを結んだもの<その2>
再び。サンカとは何者だったか。
ではここで、前章でも述べたサンカという民族を、もう一度クローズアップしてみましょう。
文明を拒否するかのように山中を漂泊して暮らす山の民。あるいは、里人、すなわち一般の人々から差別され、つまはじきにされ、やむなく山中で暮らす人々。実は、昭和初期においては、それが一般の人々におけるサンカへの認識でした。そこから受けるイメージは、学問や知識といったものから無縁ということです。
しかし、ほんとうにそうだったのでしょうか。このイメージを…180度転換して考えることはできないでしょうか?言い換えれば、実はサンカには、弘法大師に深く広い知識を与えることができるほどの優れた自然観察能力と、それをもとにした豊かな知恵や知識があったのだと。
ただ、あえて加えるなら、サンカの人々を貶めるわけではありませんが、「かつてのサンカは」と頭に置いたほうがより正確になるかもしれませんが…。
とにかく言えることは、少なくとも奈良時代以前の四国においてのサンカは高くも深い文化性を持った民族だったと筆者は確信しています。
なぜなら…。
彼らは、新しい邪馬台国を築くために九州を旅立った人たちの子孫です。新たな国づくりという大望を抱いての旅立ちですから、たとえ大きな民族大移動であったとしても単なる烏合の衆でああったはずはありません。それでは、新国家建設という大事業が成功するはずがないのですから。
当然、自然に対する知識豊かな人材はもちろん、学識豊かな人間、すなわち古代におけるインテリやエリートが大勢含まれていたはずです。そしてそれらの中には、新進気鋭タイプの人材もいれば、豊かな知識を先祖代々受け継いできた人々も少なからずいたはずです。
そして、弘法大師の生きた時代にはまだ、そうした豊かな文化がサンカの中に息づいていたのではないでしょうか。だからこそ、弘法大師は各地のサンカとの交流を求め、四国を巡ったのです。
また、弘法大師の生きた8世紀は卑弥呼の時代から500年ほど。この頃はまだ、後世の人間が考えるよりもずっと多くのサンカが四国の山間部に暮らしていたとしても不思議はありません。人口が多ければ広い生活圏が必要になりますから、サンカの生活域はそれこそ四国4県すべてに跨っていたでしょう。となると、、讃岐には讃岐の、土佐には土佐のと、それぞれの地のサンカが自分たちの土地に対する豊かな知識を活かしながら暮らしていたと考えるのが自然です。
これは言い換えれば、違う土地のサンカを訪れれば、新たな知識を得ることができるということに他なりません。だからこそ弘法大師は四国各地を巡って歩いて厳しい山道や急峻な崖さえも、ものともせずに登り…きっと、むさぼるように彼らの持つ頭脳の財産の習得に励んだに違いありません。
そんな弘法大師の行動をほうふつとさせる場所があります。それは、香川県西部にある「弥谷寺」です。この弥谷寺の本殿は長い石段を登り着いた先にあります。車に慣れた現代人にはなかなか厳しい道のりの参道です。しかも石段が整備されているのも今の時代だからこそであって、弘法大師の時代には今の本殿の場所へ登る道は険しい山道であったはず。
この参道を登ると本殿とは別に、弘法大師が籠ってり勉学を重ねた…という洞窟があるのですが、険しい山道を登った先にある洞窟…どうでしょうか。誰かと密かに会うはこれほど最適な場所もないのではないでしょうか。そして、そこで会った相手に何かをじっくり学ぶにも、理想的な環境と言えはしないでしょうか。
弥谷寺に限らず、現在では、四国88か所霊場各地は数多の参拝者のために近代的整備が成されています。しかし、弘法大師がサンカの人々と密かにして濃密な交流を持った地、すなわち札所が築かれる以前のそれぞれの地は、いずれも弥谷寺の古の有様に似ていたのではないでしょうか。
なお、弘法大師と洞窟との関係だけをとらえれば、高知県室戸市に残る「御厨人窟」の存在が気にかかるという人もいるでしょう。なにしろ、空海自身がこの洞窟に籠り、修行の日々を重ねた際、そこから見える景色から自らの名を「空海」と改めた場所なのですから。
しかし、ここについては筆者はサンカとの交流場所ではなかったと考えます。その理由は海に近すぎることにあります。海上、すなわち漁師(=里人)の船などから見つけられてしまう可能性があります。
また、ここから「空海」と名乗ったことも交流地点に選ばない理由です。むしろ御厨人窟は、弘法大師がサンカとの交流で得た知恵や知識を整理し、お復習いし、体系化するための場所だったのではないでしょうか。そして、その体系化が成ったと大師自身が納得した時、空海と言う新しい名前への希求が生まれたのだと筆者は考えています。(第7章その3に続く)




