第7章 弘法大師とサンカを結んだもの<その1>
さて、サンカの話で阿波一国から四国という広い地域の話に入ってきました。ではここで、もうひとつ、「四国」をキーワードに浮かぶある人物について語っていきたいと思います。誰のことかおわかりでしょうか。これが「土佐の高知」なら、多くの人が坂本竜馬という名を思い浮かべるかもしれませんが、残念ながら彼ではありません。四国全体と考えて、日本の歴史を遡ってみてください。四国を一本の道に結ぶと、そこに浮かび上がってくる人物です。
そうです。四国88か所霊場の祖、弘法大師空海です。サンカの話と同じように、またもや「?」マークかもしれませんね。あるいは、古代史フアンなら、弘法大師と邪馬台国の関わりはすでに、他の人が書いていなかったっけ?という声もあるかもしれません。
筆者としても、数多ある邪馬台国関連本すべて、100%目を通しているわけではないので、「弘法大師と邪馬台国には深い関係がある」という意見については、あるいは、他の研究者と重なっているかもしれません。
しかし、しばし待ってください。筆者は、ただ四国つながりというだけの単純な考えでそれを語り続けようとは思っていません。そうではなく、さまざまな角度や手掛かりを突き詰めていった結果、弘法大師と邪馬台国の不思議な関係にたどり着いたのです。まず関係有りきではなく、手掛かりを追い、推論を巡らせていった結果、そこにたどり着いてしまったのです。どうか、ここは気長に拙文にお付き合いいただきたいと思います。
弘法大師はサンカに学んだ。
弘法大師空海は四国は香川県、善通寺市に生まれました。彼が歴史の大きな舞台に躍り出たきっかけは言うまでもなく、遣唐使として唐の国に渡ったことにあります。延歴23年(804年)、30歳で唐の国に渡った弘法大師の留学期間は当初の予定では20年間という長期に渡るものでした。しかし弘法大師はなんとその10分の1の2年間で帰国します。これは、当時の遣唐使の有り様としては驚くほど異例のことでした。
なぜなら、その頃の航海術は今日とは違い、中国大陸へ渡ること自体が命がけ。留学自体は生涯をかける大事業でした。にも関わらず、たった2年で帰国した弘法大師の行動は問題視され、批判が相次いだと言います。
しかし、綜芸種智院の創設をはじめ、今日、歴史に残る「弘法大師空海」の功績をたどれば、短期での帰国が彼のその後の人生にほとんどマイナスにならなかったこともまた明確です。いったいそれはなぜなのでしょうか。
それは、たった2年の留学期間にも関わらず、弘法大師が膨大な留学成果を持ち帰ったからに他なりません。当初の主目的である仏教の教義は言うに及ばず、サンスクリット語、薬学、建築学…そのいずれにおいても、弘法大師が唐の国から持ち帰った知識は、それまでの留学生に比べ、突出していたのです。その結果として、空海が日本の歴史に遺した足跡は、あえてここで説明する必要もないでしょう。
それにしても、です。考えてみてください。あなたが2年間の海外留学をしたとしましょう。どれほどの学習成果が得られるでしょうか。言語習得力に長けた人なら3か月で生活できる程度の言葉は習得できるともいわれていますが…。それは、あくまで普通に生活するというレベルでしょう。
しかし、弘法大師の場合は状況が違います。求められているものが各段に高いのです。言ってみれば、留学先の国の言葉をマスターすれば良いのではなく、言語のマスターは当たり前、そこをスタートに、複数の分野において大学教授や学者レベルの知識を習得することを求められていたわけです。だから当初の留学予定期間が20年間なのです。つまり、選ばれて留学をする優秀な人材ですら20年かかるのが当たり前という内容を、いや、それを上回る内容を弘法大師はたった2年間で自分のものにしてしまったのです。この能力の高さには驚かずにはいられません。
天才?そう言い切ってしまうのは簡単です。確かに大師は天才肌の人間であったのでしょう。しかし、それだけ話を終わらせてしまって良いのでしょうか。少なくとも筆者は、そんな尻切れトンボのような結論は受け入れたくありません。
それでは、筆者の推論をひとつひとつ展開していきましょう。
齢30歳の折に遣唐使として唐の国に渡った弘法大師空海。それまで彼はどんな人生を送っていたのでしょうか。19才まではわりと明確な記録が残っています。しかし、それ以降、とりわけ24歳から30歳までの6年間にについては、実に謎に満ちているのです。
吉野の金峰山や四国の石鎚山などにおいて山林修行をしていたのではないかと思わせる資料が断片的に残っているに過ぎません。ただ、唐の国の言葉である中国語や仏教の経典を学ぶのに必要なサンスクリット語については、この期間からすでに習得に努めていたのではないかとする説がある程度です。
問題はここです。
外国語を学ぶのに、山林修行…?奇妙な話だとは思いませんか?留学先である唐は、当時の日本にとって見習うべき先進国。かの国から人々が日本にきていたならば、それらの人々は国賓に等しい扱いを受けるでしょうから、当然、生活の場は都にあるべきでしょう。ならば、語学の勉強に努める若き大師自身もまた、都に住むほうが何かと学習チャンスは多いはずです。
また、当時はすでに、今日の大学のような学校もありましたから、そこに在籍するほうがよほど効率的に勉学に励めたはずです。実際、弘法大師は18歳まではその学校に籍を置いていたのですから。
しかし、彼は都にはとどまりませんでした。まるで、「ここで学ぶべきことはもう無い」とばかりに、学校はもちろん、都をすらも離れてしまいました。この行動の理由は…?
こうは、考えられないでしょうか。都の学校にとどまるよりもはるかに価値ある事柄を学べる場所を他に見つけたのだと。ゆえに空海は、都を捨て、その場所に赴いたのではなかったでしょうか。その場所とは、「四国」………。
24歳から30歳の6年間の間に弘法大師が四国の石鎚山において修行をしていたことは断片的に残る資料でわかっています。しかし、空海の目的は石鎚山では無かったと筆者は考えています。ただ、石鎚山にも立ち寄り、一定期間、留まったという事実もたぶんあったのでしょう。それがたまたま記録に残されたがために、空海が四国にとどまった本当の理由がかき消されてしまったのではないでしょうか。
その本当の理由とは……サンカの存在です。実は弘法大師は謎に満ちた6年間において、頻繁に、かつ深くサンカと交流していたのではないでしょうか。
何故に…?
言うまでもありません。その「価値」があったからです。いやいや、大師は四国出身でしょう。単に地元に帰っていただけではないの、という意見も出るかもしれませんね。しかし、これについては即座に否定しておきましょう。
なぜなら、弘法大師空海は出生不明といった人物ではありません。父は郡司、母は寺の娘という、いわば地方としてはエリートに属する一族の出です。もし、この6年間を故郷の香川県善通寺でずっと過ごしていたなら、その記録が残っていないはずはないのです。にも関わらず、この6年間に空海が故郷に長くとどまったという資料も証拠も全く残っていないのです。
いや、筆者の考えでは、それは当然のこと。残っているはずはないのです。なぜなら、彼はほとんど故郷に帰ることはなかったからです。ただひたすら、四国の山地、あるいはその周辺を巡っていたのです。サンカの人々と交流し、彼らが持っている知識を習得するために…。(第7章その2へ続く)