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最終推論 邪馬台国  作者: 六津 江津子(むつ えつこ)
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第6章 四国の山の民サンカの真実

  かつて日本の山岳地帯には、「サンカ」と呼ばれる人たちがいました。定住地を持たず、山間部を漂泊して生きた人々です。伝統工芸として全国各地に残る木工や竹細工、籐細工などの多くははこの人たちの技術をもとにしたものであるという説もあります。

  …と。ここで唐突に出てくる山岳民族の話にとまどっている読者もおられることでしょう。これまでの展開から言って無理もない話です。しかし、少し待ってください。実はこの山岳民族「サンカ」の話は、邪馬台国の遷都の謎を追っていく限り、避けては通れない事柄なのです。いや、避けられないどころか、むしろ徳島=阿波が邪馬台国遷都都市であったことの核心とすら言える事柄なのです。

  それでは、「サンカ」についての説明をもう少し続けていきましょう。



サンカとは何者だったか


  「サンカ」は漢字でかけば、「山窩」です。「窩」は、洞穴などの住空間としての穴を意味する文字です。このことから山窩(以後、「サンカ」と表記)とは、山に住まう者というほどの意味を持ちます。

  但し、これは昔から使われてきた名称ではありません。昭和期に入ってから、時の政府によって行政上の都合上付けられた名称と言われています。言い換えれば、それ以前には「サンカ」と呼ばれてはいなかったわけです。

  では、実際はなんと呼ばれていたのか。地方によって多少の違いがあったようですが、少なくとも四国においては彼らは自らを「瀬降り(せぶり)」と呼んでいたようです。


  この名前を出せば、ひとつの映画を思い出す人も多いかもしれませんね。そう、萩原健一主演で1985年に封切られた「瀬降り物語」。あれこそ、サンカの生活を描いた映画です。あの映画を見た方なら、サンカがどういった人たちであったかがわかっていただきやすいかもしれません。

  ただ、昭和初期時点で四国全体でどれほどの人数のサンカが生存したのかということについては正確な資料が残っていません。それどころか、家族や血族単位、あるいは数家族の集団単位で行動し、必要に応じて一定の場所に多人数が合流するといったことも行われていたらしいものの、その集団数や規模などの事柄についても残された資料や記録がほとんどありません。

  ただ、サンカ以外の人間との婚姻を基本的には禁じていたことをはじめ、その生活慣習は多くの点で明らかに、里人、すなわち一般的日本人と一線を画していたのは間違いありません。それが、里人の側から彼らを遠ざけたためなのか、サンカ自身が自らの内部的結束を固めるために意図的に特殊性を持たせたためなのかは、はっきりしませんが。

  なお、このサンカの人々の特殊性、閉鎖性については、少し頭の隅に置いておいてください。なぜならこのことは、拙著を読み進むうちに、「そういうことなのか!」と何かが結びついてくることになるはずですから。


  映画の話はともかく。先ほども述べたようにサンカという呼称は昭和初期、まだ太平洋戦争以前の軍事色強い頃の政権によって定められたものです。では、それ以前にはサンカは何と呼ばれていたか…。答は「さんわ」。これは一部国語辞典などにも記載されています。

  では、考えてみましょう。「さん」はやはり「山」でしょう。では、この「わ」とは何なのでしょう?

  ここで、古代史ファンの方ならぜひ思い出していただきたいことがあります。1784年に福岡県志賀島で発見された金印のことを。それに記された「漢委奴国王かんのわのなのこくおう」という名前。または、中国の古代書である魏志倭人伝に登場する「倭国」という記述…。

  一方で、「さん・わ」、つまり「さん」の「わ」と呼ばれた人々の存在…。そして「さんわ」の「わ」とは。

  筆者の言いたいことがおわかりいただけたでしょうか。「サンカ」ではなく、「さんわ」であった民族が何者であったのか…。


  そうなのです。実は、拙著の軸のひとつは、ここにあります。筆者はこう考えているのです。四国の山の民、サンカ、すなわち瀬降りは邪馬台国の人々の末裔であったと。もっとも、四国の山岳民族が邪馬台国の血をひく人々であるとの考えは、これまでもあったようではありますが、それらは、邪馬台国の民が四国の山に消えていったという結論に終わるものが主流を占めているようです。

  また、「邪馬台国の末裔である…はず」という謎だけを投げかけ、今日、その証拠たるものが発見されていないことの説明ができていない学説も多いようです。

  しかし筆者はあえて、再度、この見解を読者の皆さんに投げかけます。但し、四国の山の民となったのは、邪馬台国の一部の人々であったというかたちで。


  もちろん、民族学のを研究を重ねている方々からは、サンカは四国に限らない存在であったという反論が出てくることでしょう。しかし、その事実に対しては次のような説明ができます。

  まず、時間の経過に比例してサンカ自身の中で「邪馬台国の末裔」の記憶が薄れていく。同時に、実質的な生活面では、より広い世界を求めて四国を出、他の地へ移り住む者が現れる。その中には、里人の生活のなじんでいく者もあれば、本州や九州の地で新たな山の生活を始める者もあったでしょう。

  ただいずれにせよ、四国を出たサンカたちの記憶や意識からは確実に、しかも加速度的に邪馬台国の影が消えていったはずです。その結果、四国以外の山地で生きるサンカたちは、自分たちが現在住む土地に先祖代々ずっと生きてきたと信じ込む。かくして、四国の山の民がち邪馬台国の末裔であることはますます人々の記憶から忘れられていく…。

  そうです。四国のサンカが山陽、山陰、近畿、さらに東方へとその生活の地を広げていったというのは、サンカの人々の現実的な生存のために行動の結果に過ぎないと筆者は考えるのです。


  もちろん、筆者がサンカを邪馬台国の人々の子孫であることを唱える理由は他にもあります。たとえば、四国山地はその山の深さに反して山中の街道が発達していると言われてきました。これはサンカがその素地を築いていたからではないでしょうか。また、香川県の五色台だけに算出するサヌカイトという岩石を使った石器が四国各地の古い地層から出土していることと、サンカの存在は決して無関係ではないでしょう。

  いえ、実は「サンカ=邪馬台国」の理由や証拠となりえる事柄はまだまだあるのです。それについては、これから、その時々の内容と合わせて述べていきたいと思います。そのほうが、ここで一気に語ってしまうよりもずっと、読者の皆さんに解っていただきやすいと考えるからです。

  いずれにせよ、拙著を読み続ける上は、サンカの存在を記憶にしっかりと刻んでおいてください。これは非常に重要なことなのです。


  ただ、ここでひとつだけ、ふれておきたいことがあります。面白いことに「窩」の字は、実は単独では「か」とは読まないのです。では、なんと読むのか?答えは「わ」です。そうなのです「山窩」は「さんわ」と読むのが国語的にも正しいのです。

  にも関わらず、時の政府が率先して「さん・か」と読んだのは何故なのか…。やはりここに何らかの記憶や意志があったと考えるのは不自然でしょうか?筆者には、この疑問の発生のほうが、「さんわ」を「さんか」と読ませることに比べれば、よほど自然に思えるのですが。

  なお、「山窩」の読みについては、正確に「さん・か」ではなく、「さん・くゎ」という微妙な読み方をするという説もあるようです。まるで、「か」あるいは「わ」と明確に発音することを避けるかのような読みです。これもまた、何とも不思議な事実ではありませんか。

  実はこの疑問もまた、後々、サンカと邪馬台国を結ぶ手掛かりのひとつとして浮上することになります。覚えておいてください。


  なお、サンカの現在ですが…最終的に彼らは太平洋戦争のさ中、徴兵制度の犠牲ともいうべきかたちで“山を降りる”ことを国家によって強いられました。そして、戦火にさらされた遺跡が破壊されていく如くに、その存在は歴史の中に消えていったのです。

  山の民として生きた“最後の山倭さんわがこの世を去ったのは、21世紀を迎えてしばしの西暦2008年。これにより、「人」を通して山の民族の発祥と歴史の真実をたどるすべは未来永劫無くなってしまいました。このことは歴史の探求の観点から考えても、残念至極としか言いようない悲しい事実です。

  なお、先に紹介した「瀬降り物語」のラストシーン近く、萩原健一演じる主役のヤゾーは「俺は、瀬降りはやめンぞ」と静かながらも強い決意を込めた口調でつぶやきます。サンカでいることをやめないことはそのまま、時の政府から迫害を受けることであることを充分に承知しながらも。

  これは、頭目としての誇りの言葉でもあるわけですが、あるいは、遠い先祖から綿々と引き継がれてきた血への自負だったのかもしれません。“瀬戸内海から降り立った”者たちの末裔としての……。





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