楽園 1
久しぶりなうえに少々短いです。
午後になり、僕らは集合場所の事務所のレコーディングルームにやってきた。
昨日のメンバーのはずが、渡辺さんが来ていなかった。その代わりに太田さんが来ている。
「久しぶりだね。楓太君。折角だから生歌を聞きたくてね」
「冗談が上手ですね。太田さん」
「まあまあ。この子が、秘蔵っ子ちゃんかな?」
「初めまして。ナツミと申します」
「いいね。自然な言葉遣いと所作。今時の子としてはお家が厳しいのかな?」
太田さんが何気なくナツミに問いかけると、事務所のおかげですよってはぐらかす。
彼女も先生に何かを言われたのだろうか。
「ナツミ、後で社長も来るから。そろそろ売り出し方を決めたいって」
「そうですか。アイドルはちょっと……っていうのは贅沢かな?」
「そうかな?ナツミはアイドルじゃなくていいと僕も思うよ」
「基本的にオンライン配信で歌うって方法もあるよ」
最近では、オンライン配信で活動するシンガーだっている。マスコミの露出を抑えていけばそれはどうにかできるだろう。
僕達はレコーディングルームに入ってスタンバイに入る。ピアノの音を確認していたナツミも笑顔のままだ。
「音がいい?」
「はい。ちょっとだけ練習いいですか?」
「いいよ。それに合わせてイメージするよ」
そんな時に、里美さんから指示が入る。
「ナツミも発声練習して。最初から二人で歌って」
いきなりのその言葉に僕達は顔を見合わせた。
「えっ?私も収録ですか?」
「うん、バックコーラス扱いにするかデュエット扱いにするか決めてないけど一緒に録音なら緊張しないでしょう?」
焦っている夏海ちゃんは素のままで里美さんに確認をしている。
「大丈夫。昨日の練習と同じでいいのよ」
そう言って、肩をポンポンと叩いている。
「分かりました。やってみます。楓太君少しだけ合わせてもいいですか?」
「いいよ。ナツミが不安なのだろ?」
僕が確認すると、彼女ははにかんだ微笑みを僕に投げかけている。
僕が彼女を歌いやすいように誘導すればいい。それだけだ。
「それじゃあ、手を繋ごうか?怖くないでしょう?」
「はい」
「すみません、レコーディング始めて貰ってもいいですか?よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
僕達はブースの向こうにいるスタッフさんにお願いする。ナツミも慌てて挨拶をした。
「ナツミ大きく深呼吸。僕が傍にいるから安心して」
「はい」
まだ緊張している彼女に囁く。そろそろスタンバイできたはずだ。
「はじめます」
その声と共に夏海ちゃんのピアノ伴奏が聞こえる。優しく澄んだピアノが僕達を優しく包み込む。僕らはこないだの練習の様に歌い始めた。
「なっちゃん。凄くいいよ。歌も歌っていこうか?」
最初の収録が終わって、スタッフさんが達が確認をしている。そんな中を社長がやってきて僕達のブースの中にやってきた。
「社長……本気ですか?」
「うん、シンガーの時はnatsuにすればいいだろう?それに学校でのナツミは歌う事はほどんどないだろう?」
「まあ、歌のテストで独唱じゃない限りないですね」
「はい、これで決まり。里美、聞こえたか?基本的にネット配信とこの企画のみで歌っていくから。それならいいだろう?」
社長なりの最大限の配慮なのだろう。ピアノの先生仕込みのピアノと歌唱力。これを活かさない訳にはいかないだろう。
少しだけ考えた彼女は、にっこりと笑って社長に任せますと答えた。
これで僕との仕事の時は一緒になるということだ。
「ふう?分かっているだろうな?」
社長が僕に釘を差す。僕の心の奥底を見透かされているようだ。
「どういうことですか?」
僕はとりあえずはぐらかすことにした。何となく分かってはいるけど、それは内緒。
「恋するのは自由だ。けど相手を必要以上に巻き込むな」
「分かっていますよ。恋を愛に変えるつもりはまだありません。時間はたっぷりとあります」
僕は彼女に恋をしている。その気持ちを伝える意思はない。彼女自身の問題と彼女が自分で歩き出してからが一番早いタイミングだと思っている。
それにある程度一緒にいたらそのうち気持ちなんて気付かれてしまうだろう。その時に考えればいい。今はその必要性は恐らく……ない。
「腹を括れているのか?」
「この依頼を受ける前に……あの事件の日の彼女に心を奪われたのは僕です。彼女が本当の意味で自立できた時まで待っていてもいいです。恋に形なんてありません。今は見守りながら彼女が怖がるものは全て排除します」
僕は真っすぐ社長を見る。少しでも目を反らしたら僕の負けだと言う事が分かっているから。
「そっか。まあ、俺は……反対はしないさ。いきなり女にはさせるなよ」
「当然です。当たり前じゃないですか」
「ならいいさ。ナツミ、何かあったら楓太に相談しなさい。里美も楓太と共にこの子は行動させるように」
「はい、分かりました」
里美さんに指示を出してから社長はブースを後にしていなくなった。




