冬が始まるよ 3
自宅に戻った俺は、貰ったサンプル品を手にして再び先生の家に向かう。
「あら?雅早くない?あの子まだ練習しているわよ」
「いいんですよ。久しぶりにボイストレーニングして貰えますか?」
「歌?あんた達CD出すのは来年でしょ?」
ビビッドとしてはお正月にシングルを出すことは決まっている。
典型的なウィンターソングだけども、外ではしゃぎたくなる曲だ。
「そっちじゃなくて、CMの方。アコースティックで数曲歌ってくれって」
「指定は?」
「DVD見たみたいで、初恋となごり雪だって」
「いいわよ。その程度なら。で、持っているのは何?」
先生は僕が持っている紙袋が気になっているようだ。
「今度マカロンのCMを単体でやるんですよ。これは販売品のサンプルです」
「いいの?食べちゃって」
「あからさまにゴミがバレたら問題ですけど、食べる分には平気ですよ」
「これって例のコンビニの?」
「ええ、発売開始はバレンタインだそうです」
先生は事務所関連の仕事もしているので、多少の情報を漏らしても口外することはない。
君想いマカロンの発売日は2月14日に決まった。丁度後3カ月程で発売になる。
なので、残りのCMとスチール撮影が残っているのはかなりタイトな方だろう。
年末の収録もほとんど終わったので、CMに時間が割けるはずだ。
「そう、それじゃあ紅茶を淹れるからピアノ室にいるあの子を呼んできて」
「いいですよ。それじゃあ、レッスンはお茶の後にお願いしますよ」
僕はそう言うと、ピアノ室に向かった。
防音のしっかりしている、ピアノ室の扉を開ける。それなりに音がするはずなのに夏海ちゃんはそれに気がつかないで、リストを弾いている。どうやらリストがお気に入りの様だ。
曲が終わるまで邪魔するのは申し訳ないから、終わるまで僕は壁にもたれて待つことにした。
「夏海ちゃん。おやつだよ。練習は一度休憩ね」
「あっ、雅さんお仕事終わったんですか?」
「今日はね。明日も1時から仕事だから午前中は時間がたっぷりあるよ」
「明日……帰りたくなったら帰ってもいい?」
「いいよ。無理に行こうと思ったらいけないよ」
やっぱり今日の登校は夏海ちゃんにとっては苦痛だったようだ。
「さあ、眉間に皺を寄せるとそんな顔になっちゃうよ。おやつにしよう」
僕は夏海ちゃんの手を引いてピアノ室を後にした。
「さあ、雅の差し入れのマカロンを食べましょう。夏海、マカロン好きでしょう?」
「うん、マカロン大好き。雅さんありがとう」
「いいえ。まだあるから程々に食べてね」
僕達はのんびりとおやつタイムを楽しんだ。
「夏海、今日は久しぶりに外に出たから疲れたでしょう?そろそろ帰りなさい」
夕方5時。先生が夏海ちゃんに自宅に帰るように促した。
「はあい、それじゃあ、雅さんさようなら」
「うん、明日も学校に行く時に一緒に行くからね」
「お仕事……いいんですか?」
「平気だよ。ちゃんと調整してあるから。ダメなときは言うから気にしない」
僕は軽くだけども夏海ちゃんのおでこにデコピンをした。
「……痛いです」
「そうだった?そんなに強くしていないよ?痛いの痛いの飛んで行け?」
夏海ちゃんが頬をプックリと膨らませて怒る姿がまた可愛くてつい構いたくなる。
流石に追い打ちをかけることはしないで、おでこを優しく撫でた。
「子供扱いも酷いです」
今度は落ち込んだみたいでしゅんとしてしまった。
「夏海、雅と5歳離れているんだからね。あなたがピアノ始めた時にはお兄ちゃんって言ってしがみ付いていたの忘れた?発表会の時の証拠写真あるわよ?」
「やっ、止めてよ。もう帰るから。それじゃあまた明日」
夏海ちゃんはそう言うと、学生鞄を抱えて慌てて帰って行った。
「先生……人が悪いですね」
「あらっ、雅も忘れたの?ピアノを始めたばかりに夏海に懐かれて大変だったじゃない?」
先生は思い出したみたいでクスクスと笑う。
僕は忘れていた訳ではない。言葉がちょっと上手に出ない女の子が僕に張り付いていた記憶はある。私ねって言えなくって「なちゅね」って自分の事を言っていた。
アレは夏海ちゃんだった訳か。道理で僕に懐くのは早いかが分かった。
「さて、夏海がいなくなった事ですから、ボイストレーニングしますか?」
「やっぱりそう言う意味でしたか?」
夏海ちゃんに僕の姿を明かさない為に帰したのが本音だったようだ。
「あの子はああ見えても、絶対音感の持ち主だから、楓太であった雅の歌声だとごまかせないもの」
「そりゃあ、確かに。俺でもなっちゃんの能力は凄いって思うし」
「雅、今俺って出てる」
「別にいいよ。先生との関係ならいいって。楓太の時間が多くって素の自分でいるのが結構な癒しなんだから。見逃して」
「はいはい。光の所では俺って言ってないじゃない?」
確かに昨日は光達の前では俺って言っていない。
どこで誰がいるか分からない所では僕で統一していた。
「まあ、慣れましたからね。楓太風味の穏やかな青年。本人の実態はともかく」
「本当。見事な猫かぶりね。立派なものよ。そんな雅が心配だわ」
「そうですか?いずれは丁寧な言葉遣いの世界で暮らすんですからいいんですよ。本当の俺を知ってくれるのは愛する人と理解してくれる人で充分です」
俺はそう言ってから、軽く声をだす。
歌う事は嫌いじゃない。皆と歌うのも嫌いじゃない。部分的にハモリになる様になる時は樹と一緒に同じ音程で歌うのだが、樹の声が俺よりも少し低いから樹のトーンに俺が合わせる。それに合わせて、楓太のトーンも雅よりも下げている。この事を知っているのは、メンバーと社長とマネージャーとボイストレーニングの先生でもあるこの人しかいない。
元々先生は、オペラのアリアだった。ただ、体調を壊して第一線を退いて大学でピアノも勉強したことから今はピアノ講師をしている。
「それじゃあ、始めるわよ」
その後僕は、2時間びっしりと先生に鍛えられたのだった。




