負けないで 1
すみません。今回はかなり短いです。
珍しく3日間のオフになった。1日目は実家の家業の手伝いをする。今の僕だと表立った事はしないけれども、事務所作業は昔からやっているから辛くない。
季節は11月中旬。ちょっと早いだろうけど年賀状のあて名書きをひたすらしている。
事務所から、住所録と印刷済みの年賀状を受け取って自室で書く。
事務所で書くのもいいけど、事務所のスタッフなら問題はないけれども外部の人がちょっと問題になる。それと教室の生徒さんかな。
完全に出かけない時は、和装で過ごす。部屋に入って、折りたたみ式のローテーブルを出して、幼稚園から愛用している習字道具を取り出す。
書道は中学に入るまでは続けていた。数少ない今はやっていないお稽古ごとの一つだ。
もう一つは競泳だ。そこそこ泳げるけれども、アイドル水泳大会という昔懐かしい番組がないお陰で披露することはない。たまに水着を着る仕事はあるけれども。
今は事務所が契約しているスポーツジムで泳ぐ程度だ。
墨をすりながら、その音だけに神経を集中させていく。静まった部屋の中、墨をする音だけがして、墨の匂いが部屋に広がる。この状態は個人的に好きだ。
そして、住所録を見ながら僕は丁寧に書いていく。まずは、取引のある業者さん、いわゆる茶道関連の人そこから書いていく。集中力が切れて時計を見ると正午を示している。
作業を中断して昼食を取ることにした。道具を片づけて、昼食後暫くしてからの外出を考えて僕は着物から洋服に着替える。
昼食は、にゅう麺にする。今日からオフとはなっていたけど、本来は1日だけのはずだった。ドラマ撮影のスケジュールで撮影予定が伸びてしまったのだ。僕の撮影シーンは全てがスタジオだし、後1日あれば終わるはずなのだが、僕と一緒に撮影する相手の女優さんが体調を崩してしまったそうだ。この時期は誰でも体調を崩しやすいと思うから責めることはしない。女優さんの事務所あてに、早く治って撮影したいという旨のメールを送信した。個人アドレスは知らないから、事務所に送るのは間違いではないだろう。
もちろん、彼女に対して異性として意識もないし。
食事が終わって、暫く自室のベッドの上で寝そべる。
疲れがちな目を休める為にヒーリングミュージックを聞く。
今日の午後の予定を確認する。駅の側の楽器店に頼んでおいた楽譜を受け取りに行ってから久しぶりにピアノのレッスンを受ける予定だ。
楽譜を受け取ってからレッスンまでは時間があるから指慣らしをしてからレッスンに行きたい。ここのところ忙しくて、ちゃんと触っていないからきちんと動くのだろうか?
ちょっとだけ不安になる。
ピアノは嫌いじゃない。思っている事が全て音に出てしまうからごまかせない。
それだけ自分を向き合う事が出来るその瞬間が僕は好きだ。
来年4月のドラマでピアノを弾く学生の役が決まりそうだって連絡があったばかりだ。
これからは仕事の合間にピアノのレッスンをした方がいいだろうとぼんやりと考えていた。
目を閉じてウトウトしていたせいだろうか?僕は急に先週のマカロンの打ち合わせの帰りに会った彼女を思い出した。彼女が流した涙が綺麗で惹き付けられたこと、どうしてあのスチールが彼女をそうさせたのか?その事だけが凄く今になって気になりだした。
思わず、ハンカチを貸してしまったけど、実は僕らのことが嫌いなのでは?だとしたら迷惑だよな。家が近くて、しかもピアノ教室が同じだなんて……だったら今までも会っているはずだよな。どうして気がつかなかったんだろう?
発表会もあったし、コンクールも積極的に参加する教室だからそれなりに才能のある子はレッスンの回数がどうしても増えて来る。
僕もデビューするまでは週に2回レッスンを受けていた。
何より、彼女に僕は名前を名乗ったけれども、彼女の名前は知らない。
だから、どの方向に住んでいるのかは分かっても、どの学校に通っているのかも分からない。女の子は多分160センチはあったと思う。中学校で160センチはあんまりいないだろうし、中学生にしては大人びて見えたと思う。制服だとは思うけど、タイツを履いていたから足元で判別できないし、何よりピーコートを来ていた。ピーコートなんて冬になれば大抵の女子は着ているから更に高校生なのか、中学生なのか分からない。
何気ない出会いだったはずなのに、名前も知らない君に凄く引かれている自分に自覚してしまい、次に会ったらどうしようと僕はうろたえてしまった。




