ホテルリバーサイド
私たちは今日もまた、川沿いのホテルに泊った。
看板に掲げてある名前は「ホテルリバーサイド」。
リバーサイドを冠するホテルなど全国に百以上はあるだろうが、今日私たちが宿泊するリバーサイドは特筆するべき部分もない普通のビジネスホテルだった。
私たち二人は三階の一室を宛がわれた。狭いくたびれた部屋だった。ベッドはちゃんと二つある。
「同じ川でも見る場所によって風情がありますね」陽子はベランダのガラス戸から夕暮れの景色を眺めていた。広い川面に、沈んでいく茜色が跳ね返ってなかなか綺麗だった。
「そうだね。これだけ川幅が広いと」私はそう答えたけれども、夕景自体にはさして感動もなく、そんな些細な事に気を留められる陽子が微笑ましかった。
「そうだ。戸田さん、夕食どうします? ここ出ないみたいなんですけど」
戸田さんとは無論私の事だ。
「それじゃあ、まだ時間も早いしどこか食べに行こうか」
日の暮れた観光地でもない街の景色は、私には特に感ずるところはなかったが、陽子は車の助手席から辺りをキョロキョロ眺めていた。
どこで夕飯を食べるのか迷った末、結局全国チェーンのファミリーレストランに決めた。
「こんなに遠くまで来ても、ついファミレスに入っちゃうんだもんな」料理の注文を終え、私は陽子に話しかけた。
「やっぱり都合がわかってる場所だと安心しますもんね」
「はは、だから儲かるんだろうな」私はポケットから煙草の箱を取り出す。「吸っていいかな?」
「どうぞ。私は気にしないっていつも言ってるじゃないですか」陽子はほほ笑む。
「嫌煙ブームなんで、ついね」私は煙草を吸い始める。
ガラガラと幾度となくファミレスのドアが開け閉めされていく。私は腕時計を確かめる。七時半か、夕飯時で人の出入りが激しいのだろう。
大勢の笑い声、母親がさわぐ子供を叱る声、店員が注文を取る声、壁に掛けられたTVから流れるニュースキャスターの声などがガヤガヤと入り混じり、私たち自身も喧騒の一部となっていく。
「いくつになっても大勢の人の中ってのは落ち着かないね」私は言う。
「そうですね。でも最近は戸田さんがいるから心強いです」陽子はまたニコリと笑う。私はそれを見て、この子はさぞ男たちに余計な勘違いをさせてきたんだろうなと考えていた。
「ま、まあそれはいいとして、もう大分下流にきたんじゃないか?」
「五分の四くらいですかね」
「そうか」私は視線を落とす。「あと少しなんだな……」
「嫌になりましたか?」
「いいや、そんなことはないさ」
そんな事を話していると、ウエイトレスの女の子が料理を運んできたので、話を打ち切った。
陽子は和風定食、私はステーキ定食。食欲をそそる、肉の焼けるにおいに唾液が分泌され行くのを私は感じた。
満腹になった私たちは、すっかり暗くなった道路へ再び軽自動車を走らせた。
「ごめんなさい、運転できなくって」陽子は申し訳なさそうに言う。
「はは、なんだよ今更。気にしなくていいんだよ。私は運転が好きなんだし。それよりどこか寄りたい所ある?」
「今日はもう大丈夫です。戸田さんは?」
「私も特にはないかな。じゃあそのまま帰ろっか」
「はい」
ホテルの駐車場に車を止め、フロントで鍵を受け取って自分たちのダブルルームに戻った。
先に陽子がシャワーを浴び、私は彼女が出た後にバスルームへ入る。
私が出て来た時、陽子は自分のベッドに腰かけて文庫の推理小説を読んでいた。私を見つけると本を閉じバックからごそごそとアレを取り出す。
「オセロやりましょ。オセロ」陽子は嬉しそうに笑いながらポータブルオセロを見せびらかす。
「またか」私は言う。ここのところ毎日勝負を仕掛けられるのだ。未だ負けた事はない。彼女は一体何が楽しいのだろうか。
「まあまあそう言わずに。私が黒を持ちますね」陽子が私の白石をひっくり返す。
「ほれ」私も一つだけ取り返す。一石返しといってオセロの基本だ。序盤から中盤にかけては余り取り返さない方がいい。
「あたし今日こそは勝ちますよ」陽子は元気よく私の白石を奪っていく。
「がんばれ」私はちまちまと中央の石を取り返していく。中央の石を確保しておくのも大事だ。それから、盤の隅の周囲三マスは四隅を取られる原因となるので石を置いてはいけない。だいたいこれだけ覚えておけばそこそこ勝てるものだ。
陽子はそれを知らないから私に負け続ける。コツを教えようとしてもそれを拒むため私はなんとも微妙な心境で毎晩オセロに励む事になるのだった。
今晩も白の大勝で終わる。もう十時前だ。ベランダから、月明かりに照らされて薄らと川が見える。
今日はよく晴れているし、郊外で光源も少ないため、空には星々がはっきりと確認できた。
秋の星座には明るい星が少ないが、私はそれが秋という季節のイメージにマッチしているようで好きだ。
ベランダのガラス戸を開けると、涼しい風が入り込んでくる。個人的にはこの季節が一番過ごしやすい。
「いい風ですね」横に来た陽子が言う。
「そうだね。でもなんだか秋風は感傷的なものを運んでるような気がするんだよな。昔から」
「あたしもそう思いますよ。しかし戸田さんは詩人ですね」
「詩なんて生まれてこの方一度も書いたことないよ」
「感じいる心があれば詩なんて書かなくても詩人なんですよ」
「きみのほうがよっぽど詩人じゃないか」
「あたし達吟行の旅の途中ですもん」陽子はくすくす笑う。
胸一杯に秋のおもむきを吸いこんだせいか、だんだん眠くなってきた。
「そろそろ眠ろうか」私は言う。
「一緒にですか?」
「まさか」私は片眉を上げる。「一緒がいいか?」
「あたしは構いませんよ」
「おいおい、年上をからかうもんじゃないよ。自分の布団に戻りなさい。おやすみ」
「ふふ、親みたい。おやすみなさい」
あっという間に夜は更け、次の朝が始まる。
ナイトテーブルに置いた腕時計を確認する。七時半だった。
ガラス戸からカーテン越しの陽光が部屋に差し込んでいる。小鳥のさえずりが聞こえる。
私は身体を起こし、背骨を伸ばす。
今のところなかなかいい朝だなと私は感じた。
「おはようございます」横のベッドで掛け布団に包まったままの陽子が私に声を掛けた。
「おはよう、ちょっと寒いね。昨日は眠れた?」
「不眠症気味なものでして、戸田さんより二時間遅く寝入って、二時間早く起きちゃいました」
「そうか、かわいそうに」私は布団を投げ捨て立ち上がる。「コーヒー飲みたくないか? それともまだ寝たい?」
「お付き合いしますよ」
私たちは忘れ物がないよう荷物を確かめ、ホテルをチェックアウトした。
それから車を市街に走らせ、手ごろな喫茶店に入る。
モーニングサービスを注文すると、トーストとバター、ハムエッグ、サラダ、それからコーヒーが出された。お腹がすいていたので私はそれらをぺろりと平らげてしまう。陽子はそれほど食欲がないらしく、ハムエッグとサラダを私にくれた。ここのコーヒーはなかなかうまい。私はコーヒーをおかわりした。
「いつもながら戸田さん、朝からよく食べますね」コーヒーカップをソーサーに置きながら陽子は言った。
「普通だよこのくらい。逆に私には、きみが毎日たったそれだけで動けている事が不思議でならない」
「燃費がいいんですよ」陽子は軽口をたたく。「さて今日はどこへ行きますか?」
「そうだな、観光地ってのはもう飽き飽きしたろ?」
「確かにこう何週間も毎日毎日観光してると、大抵の観光地の要素は味わいつくしたような気になります」
「私としては、もう一生分観光できたと思うね」私は小さく笑う。
「それじゃ今日は川沿いをドライブしますか?」
「うん、そうしよう。どこか行きたい場所が見えてくればその都度寄ればいい」私は財布を取り出しながら席を立ちあがる。
「はい」
そう言って陽子が立ちあがったとき、携帯の着メロが鳴った。ゴットファーザーのテーマだ。陽子はバッグから取り出した携帯の表示を見て眉根を寄せる。それから黙って携帯をバッグに押し込んだ。
「あ、すいません、戸田さん。行っても大丈夫ですよ」
「家族の方かな?」
「え、あ、はい、時々思い出したようにメールを送ってくるんです」陽子はいかにも不快そうに吐き捨てる。「本当に心配なら警察に届け出を出せばいいのに。ホテルの帳簿にいくらでも記録が残ってるんだからその気になればすぐに見つけられるでしょうに」
「……あ、すいません」陽子はすぐに我に返って私に頭を下げる。
「いいや、私こそ余計な事を聞いてすまない」私は車のキーを陽子に渡す。「先に乗ってなよ」
「はい、ありがとうございます……」
中古のハッチバックはちょっとした悪路を走ってもよく揺れる。いや私の愛車が格別ボロなのだろう。私は慣れきっているからなんともないが、はじめに陽子を乗せた頃は、陽子はしじゅう船酔いのごとく顔を青くしていた。おかげでダッシュボードには大量のレジ袋の予備が積んである。
「この揺れももはや心地いいですね」助手席の陽子は言った。
「この魅力に気づいたのは私のほかに君だけだよ」
「それは光栄です。最初はあんまり揺れるから腹いせにドアを蹴ったりしてたんですが」
「おい」
「こうしてみるとやっぱり愛着が湧きましたね」
「名残惜しいか?」
「そうですね」陽子は低い天井を見つめる。「はぁ、旅を始めた頃はまだまだ日数はたくさんあるんだって思えたのになあ……」
「あっという間だったな。私もなかなか楽しかったよ」
「わあ」陽子は破顔一笑する。「戸田さんがそんな事言うなんて意外ですね」
私はなんだか恥ずかしくなってそっぽを向く。
「煙草吸っていいか」
「じゃあ火点けてあげます」
「いいって」
「遠慮せずに」
「遠慮してないから」
「じゃあ逆に私の為を思って」
「……ったくもう」
私は陽子の危なっかしい手つきにひやひやしながら、煙草に火を点けてもらった。
嫌々な態度をとりつつも、キャバクラで接待されるおっさんのような得意な気持ちに浸る。
年取ると感性がどんどんおっさんじみてくる。いやだいやだ。
「日本海で泳いだ事あります?」陽子が言った。
「いや、生まれは高松でさ。海自体ほとんど行った事がないし」
「じゃあ、瀬戸内海ですか。あたしも日本海見たことないんですよ。やっぱ波は高いんですかね」
私は荒波さざめく、東映映画のオープニングみたいな海を思い浮かべる。東映映画のアレは太平洋側のものらしいけど……。
「さあね。ま、見てみりゃわかるさ。行こうと思えば今日中にも行ける」
「えー、いつも通りだらだら進みましょうよ」
「そうしたいところもやまやまなんだがな」私は苦笑いする。「実は路銀が尽きそうなんだよね」
「あはは、あたし達散々物見遊山楽しみましたもんね」
「というわけでさ。明日には終着点まで行こうと考えているんだ」
「そうですか。それもいいですね」
私たちの車は横を流れる一級河川を沿ってぐんぐんと北上していく。運転席側の窓からは変わり映えがするようなしないような街の景色がパラパラ漫画のように動いて見えた。
名残惜しい、か……。
確かにそれはある。この旅が終われば、私たちももう会う事はなくなるだろうから。
あっという間に一日は過ぎ去り、私たちは今晩の宿でオセロに励んでいた。
ここは流石にリバーサイドという名前ではなかったが、川からほど近くにあるホテルだから似たようなものだろう。シティホテルとのたまう割には、ホテルの周りの道路は夜九時にしては静かなものだったし、辺りのビルもほとんどが消灯してあった。
「いやあ、さっぱり勝てませんね」陽子が髪をくしゃくしゃとやる。
「私は最後まで負けてやらんぞ。温情はかけない主義だからね」
「だからこそ潰しがいがあるってもんです」
「どの口が言うんだよ」
「えへへ」陽子は少女みたいに笑った。「なんだか修学旅行を思い出しますね」
「残念ながら修学旅行にいい思い出がなくてね」
「あたしも似たようなもんですけど、ホテルとか旅館っていう雰囲気は好きだったんです」
「ああ、なんとなくわかるよ」
「やんごとない感じがしますもんね」
「するする」私にはやんごとないがどういう場合を表す言葉なのかよくわからなかったけど。
「さあて、明日で旅も終りとのことですし、ぱあっと打ち上げでもしますか」陽子は荷物からアルコール飲料とおつまみを取り出す。
「きみアルコール大丈夫だっけ?」
「今日は大丈夫です」
「今日は、ってなんだよ。もうゲロはいやだぞ」私はもう五回以上彼女のそれを処理した経験があった。
「じゃあ、単に大丈夫ですよ。吐きませんって」陽子はごくごくと飲み始めてしまった。
「はあ、仕方ない。付き合うよ」私はあきらめ顔で酒をトクトクと紙コップに注いだ。
翌日、早めにホテルを出て、私たちは日本海を目的地に車を進めた。
さしたる障害もあるはずがなく、数時間後、私たちはどこかの砂浜まで辿り着いた。目の前には青い海が広がっている。遠くの埠頭には船が何隻もつけてあった。
「わあ、海ですね。海!」海を始めてみた子供のように、陽子は波打ち際まで走っていく。
「思ったほど波は高くないな」私は歩いて彼女についていく。
「そうですね。ねえ戸田さん」陽子は手で海水をすくった。
「ん?」
「水かけていいですか」
「聞くなよ」
「いえ、昔友達にいきなりかけたら凄い怒られたので」
「反省が生きてるわけだな。ま、好きにすればいい」
「えい」
パシャっと水がかかる。意外と冷たくて私は身震いした。
「やったな」対抗心が湧いてきて、私も陽子へ水をかける。
水かけ合戦が始まった。一通り済んだ頃には二人ともびしょ濡れになっていた。
私たちは車に戻って着替える。
もう海はいいか、と大いなる日本海に辞去する。
それからご飯を食べに行って、銭湯に入って、としていたら結構いい時間になっていた。
「ホテルはシーサイドがいいか、リバーサイドがいいか」私は聞く。
「やっぱりここまで来たらリバーサイドですよ」
「それもそうだ」
私たちはホテルを探して川沿いをさまよう。しばらくして、そこそこ大きなホテルを見つけた。ここも「リバーサイド」の名を持つホテルだ。
受付を済ませ、エレベーターに乗り、絨毯の敷かれた廊下を歩いて、私たちの部屋へ入る。
「わあ、高い。川がよく見えますね」と陽子は言った。
窓を覗くと、地平線のほうに河口堰が見える。
カラスの鳴き声が聞こえる。空は赤かった。もう夕暮れ時だ。
肩の筋肉が緩んで、身体の奥から達成感のようなものが込み上げる。
「川を源流近くから下って、やっと終わりまで辿り着いた。これで全部終わりだな」
私たちが川を選んだのには大きな意味合いはなかった。あえて言葉にするなら川の流れが人生に似ていると思った。いや、それも大げさだな。
「はい、意外とあっけないもんですね」
「そんなもんさ」
「そうですね」
「どうだ? 決心が揺らいだか?」
「いえ、戸田さんは?」
「私もだ。ここらで終わりにしないとと強く思うよ」
「戸田さん、今までありがとうございました。戸田さんが優しい人でよかったです」
「私も最初に会った時は、相手がこんな可憐なお嬢さんだったからびっくりしたよ」
「戸田さんだってそんなに歳が違わない癖に」
「いやいや、女っぷりが違うさ。私とはね」
「戸田さんだって綺麗ですよ」
「あはは、ありがとよ」私は呵々大笑する。
沈黙が流れる。
「それじゃ、ロープ出しますね」
「ああ」
「ホテルの人達には申し訳ないですね」
「こんな時まで他人の事は考えなくてもいいさ」
「……そうですね」
「しっかり括りつけたぞ」
「はい、それじゃあ私はバスルームで」
「ああ、お互いもう顔を見る事がなければいいな」
「はい」
「……あるいは向こうで」そう言おうとして、私は言いとどまった。「ま、それも今は考えなくていいか」