惑う夜
天空高く飛ぶあの長き尾は、あれは妖であろうか。
洞穴近くの崖に座り、十座は一人空を見上げていた。月明かりが眩しいほどの夜だった。その月の光を受けてなお、満天降るような星空。
十座は深いため息をついた。
何年かかっても手伝うとは言ってみたものの、どうすればいいのか皆目見当もつかない。気ばかりが焦る。ごろりと横たわると、目の前にはただ星しか見えなかった。見つめていると、体ごと星空に溶けてしまいそうになるほどの深い闇。
「いっそ溶けてしまえ」
十座は呟いて、もう一度ため息をついた。
唐突に、視界の隅に白い何かが翻る。妖かと思ったそれは、よく見れば人の姿をしていた。
「綺麗でしょう」
人一人分の間を空けて隣に座った白髪の娘、真白が言った。
「真上で一番輝いている星が龍の目。そして、四方にあるのが四神」
東方青竜に北方玄武。西方白虎にあちらが南方朱雀。
一つ一つ指をさす。その度に揺れる白い髪が、月明かりに照らされキラキラと光りの輪を描いた。黒だとばかり思っていた瞳が、実は海の底のような黒藍なのだと気づいた十座は、理由の分からない胸の高鳴りに困惑を隠せない。
綺麗だと、どうしてかそう思ったのだ。
顔形が、というわけではない。単なる美醜でいうのなら、十座自身の方が真白より数倍整っている。それ以前に、十座に他人の容姿に対する興味なんてものは皆無なのだ。基本的にどうでもいいと思っているし、見るに耐えないほどでなければいい程度の認識しかない。自分の外見にも周囲が呆れるほど無頓着な男なのである。当然、他人の顔に心惹かれたことなど一度もなかった。
なのに。
剣先を向けられてなお凛と立つ真白も、そして無邪気な微笑を浮かべる今の真白も。
「綺麗だな・・・」
などとついうっかり口を滑らせた十座の内心の動揺に気づくことなく、真白は無邪気な笑顔を向ける。
「うん、綺麗だよね、今日の夜空。星も月も、それから森も」
にこにこと笑う屈託のない顔が、これほど心臓に悪いとは思わなかった。十座はさりげなく視線を逸らすと、強引に話を星空から―――真白の笑顔から―――引き剥がしにかかる。
「あー・・・・それで結局お前はどっちなんだ。人なのか妖なのか。角がないところをみると麒麟ではないようだが」
「なにさ、いきなりやぶから棒に・・・・・人だよ、私は。悪い?なんか文句でもある?」
途端に不機嫌になった真白は、いかにも不承不承という顔で横を向いてしまう。
「文句などはない。だが・・・・嫌そうだな」
「嫌そう?違うよ、嫌そうじゃなく嫌なの。私は人が嫌いだから」
「だが、お前は人間なんだろう。なら、なぜそう嫌う」
「それは・・・・あなたには関係ないよ。放っといて」
突き放すような言葉が傷つけたのは、十座ではない。
「そうか、分かった」
そ知らぬ顔で答えて、十座は夜空に目を向ける。傷ついた黒藍の瞳を見たくなかった。見れば、十座の中の何かが揺れる。だから気づかない振りをして、十座は雲一つない夜空を見上げた。そういえば、こんなにゆっくり星を見たのは何年ぶりだろうと半ば強引に考えてみる。
静かな夜だった。
深い森のあちこちから、夜生きる獣や妖の気配はするけれど、人の営みは感じられない。
ここは、人の生きる場所にあらず。その思いが急速に胸に迫る。
十座は思わず隣に座る少女の横顔を見るともなしに見た。意志の強そうなその瞳は星のようだ。凛として潔く、そしてどうしようもなく孤独な一つ星。
麒麟はほとんど門を離れることはないという。ならばこの娘は、こんな場所にたった一人で、そしてこれからもずっと一人でいるのだろうか。
「寂しくないのか」
口にしてまた愕然とする。さっきから自分は本当にどうかしている。気が触れたとしか思えないような台詞ばかりが勝手に口をつく現状に、十座は思わず唇を噛んだ。
そんな十座に気づいたのだろう。真白はわずかに目を見張り、「らしくないね」と少し笑った。
「一人じゃないから寂しくないよ。妖たちは沢山いるし、麒麟だっている。山には龍もいるんだよ。私は人が嫌いだから、人がいないのはむしろありがたいくらいだし。・・・寂しいわけないよ」
そう言う顔がやけに寂しそうだ。
更に言いかけて、十座は今度ばかりはしっかりと口と噤んだ。仔細があるのはお互い様。これ以上深入りして、得られるものなどあるはずがないのだから。