思い合う
婦女子の寝室に無断で入る暴挙に出たのは、その声がすすり泣いているように聞こえたからだ。虚空へと伸ばされた白い指先は頼りなく揺れて、捕まえておかなければすぐにでも消えてなくなりそうで恐ろしかった。だから、その手を掴んだ。振りほどかれると思ったが、そうはされず。為すがまま包み込まれた掌はしっくりと手に馴染んで、そうなると今度はどうしても離せなくなった。
――何をやってるんだ、俺は。
自分でも呆れるが、やめる気にならないのだから仕方ない。らしくない行動の理由を考えるのは後だ。逡巡した挙句、十座はとりあえず目の前の心配事に向き合うことに決めた。
「……………………大丈夫なのか」
何が、と麒麟ならば聞いただろう。不器用にすぎる男は、いつもどこか言葉足らずだ。
「は?」
挙動不審な上、珍しく饒舌な男のよく分からない気遣いに、真白はポカンと口を開いた。
「は、じゃない。だから、………お前、大丈夫か」
気分はどうなんだと問うやけに真剣な顔を、真白はキョトンと目を開けてまじまじと見つめた。
「大丈夫って……ど、どうしたの、十座。何か問題でもあった?」
なにしろ真白には心配される理由がよく分からない。問題はむしろ十座の方だと思うし。つらつら考えてみるに、この生真面目な男が他人の部屋に無断で立ち入ったことからしてすでに変だ。もしや自分が暢気に寝ている間に、不測の事態でも起きたのだろうか。真白は急に不安になる。だが、目の前の端正な顔に特に目立った外傷はない。詰めていた息を吐き、真白は安堵の笑みを浮かべた。
「…よかった。とりあえず怪我はないんだね」
「怪我?…あー、またお前は余計な心配を…俺は無事だ。怪我なぞないし、なにも問題はない。そんなことよりお前だ、真白」
チッと舌打ちの後、ハアと大きなため息が聞こえた。
「ひどくうなされてたぞ」
本当に大丈夫なのか、と十座は真剣な顔をしている。真白は両の眉を寄せた。
「なんだそんな事か。大丈夫だよ。ちょっと夢見が悪かっただけで大したことないし。それよりも、十座の方こそ大丈夫なの?もしかしてなんか悪いものでも食べたとか。それかどっかに頭でもぶつけた?」
酷くやわらかい、不思議なほどに温かい感情に包みこまれて、実のところ真白は内心大いに混乱していた。この綺麗に整った「気」は間違いなく十座のものだ。それが、にわかには信じ難いほど優しいのはなぜなのだろう。
「悪いもの食べたとかぶつけたとか、俺は子供か。…俺が心配するのがそんなにおかしいか」
「別におかしくはないけど。それより、ねえ、なんで十座ここにいるの」
内心の戸惑いのまま、真白は聞いてみた。十座から伝わる感情は労わるようで、やはりやけに優しい。さっきから感じていた柔らかいものが目の前の青年から溢れてきたのだと知るにつけ、当惑の度は増すばかりだ。握った手もどうしてか離す気はないようだし。
――まあ、振りほどかない私も私だけど。
何か、あったんだろうか。真白は十座をじっと見上げた。
苦虫を噛み潰したような仏頂面が、この男の本質を表すものではないと知っている。
本当は優しいのだ、この人間――十座は。
そんなこと初めから分かっていた。妖を躊躇なく切り捨てていたあの時でさえ、かすかに漏れ伝わる魂の色は痛々しいほどに美しいものだったから。
真白は感覚をわずかに研ぎ澄ましてみた。感じるのは清浄で澄み切った、人が纏うものとは明らかに異なるお馴染みの気配――麒麟の気。
「――ああ、そういうこと」
真白は苦笑するしかない。十座をそそのかしたのは麒麟だ。あの気の良い聖獣たちは、いつだってとても過保護なのだから。
「で、炎駒と角端は十座にどこまでしゃべったの」
あえて軽い調子で聞けば、十座はひどくばつの悪そうな顔をした。
「あー、やはり隠せないか。…まあ、それは、色々だ。龍眼のことも聞いた」
「そんな事まで言ったんだ、あの二人」
「ああ……すまん」
「なんで十座が謝るのさ」
「ああ。だがすまん」
「もう良いよ。大したことじゃないし。もうずっと昔の話だし」
やっと腑に落ちて真白はため息をついた。十座は同情しているのだ。どちらかといえば、おぞましいだけの話を聞かされた十座こそ同情されてしかるべきだが、この顔ではそんなこと思ってもいないのだろう。さぞ不愉快な思いをしたろうに、やはり十座はとても優しい。
だから。
勘違いしてはいけない。真白は自分に言い聞かせる。この優しさを向けられていい相手は、自分ではないのだ。ツキリと痛む胸を、真白はかすかに微笑んで強引に無視した。
「もう嫌だなー。そんなに心配しなくても、私が貰ったのは龍の眼だけで龍爪刀は貰ってないよ。嘘じゃないって」
冗談めかしてなんでもない風を装ったのに、情けない事に声が震えた。たまらず俯けば、ポンポンとなだめる様に頭を撫ぜられて今度は息が止まりそうになる。
「何を誤解しているか知らんが、お前の事は信用している。疑ってなぞいない。あのなあ、真白。俺はそういう心配をしているわけではないんだ。俺が案じているのは、お前の体調だ」
本当に大丈夫な人間があんな顔するか、と。
「な、にを」
「お前………だから、本当に大丈夫か」
照れくさそうな横顔を、真白は痺れるような思いで見つめた。十座の体から溢れ出すような優しい感情の波が、真白を包み込むように揺れる。このむずがゆい感情は、決して不快なものではない。
じわりと、甘い衝撃が全身に波紋のように広がっていく。
――そうか、私は。
真白は胸に手を当てた。仄かな情動がひたひたと、ひたひたひたと迫る。喉元まで競り上がる台詞を辛うじて飲み込んで、真白はなんとか笑みを浮かべた。
「心配ないって、本当に、大丈夫。ありがとう、十座」
「別に礼を言われるようなことは何もしていない」
この人は照れるとひどく子供っぽくなる。そんな些細な事にも胸を締め付けられるくらい。
――好きだ。
この綺麗な顔をした、残酷であろうと無理ばかりしている優しい人が好きだ。思いはスンナリと胸に収まり、容易には消えてくれそうになかった。
これはあってはいけない気持ち。
そんな事は分かっている。十座に相応しい人間は、断じて自分のような化け物ではないのだから。醜い化け物の身で、それでも側に居られて、気遣ってもらって幸せだ。この優しい人の役に立つなら、この苦痛に満ちた生すら意味があると思えるほどに。
――それくらい、私はもう十分に幸せだ。