約束という名の鎖
ああ、また――来る。
(こ、わ、い)
少女は両手で自分の体を抱きしめると、部屋の隅にギュッと縮こまった。震えは止まらない。瞳を閉じたところで無駄なことは分かっていたけれど、恐ろしくてとても開けてはいられなかった。
(こわい)
ああ、もうすぐそこまで来ている。
ソレはまるで鋭い刃物のようであり、生ぬるく張り付く血のりのようであり、腐臭を放つ汚物のようでもあり、そして少女には決して逃れることの出来ないモノであった。
恐ろしく邪なモノ。
(こわいこわいこわいこわい)
遠くで蠢いていたどす黒いモノたちは、徐々に形をなして少女の元へと押し寄せてくる。はっきりと感じ取れるのに逃れる術はない。固く閉じていた筈の唇がカタカタと鳴る。力を入れすぎて白くなった指先が、それに合わせるようにぶるぶると震えだした。
ああ、もうすぐ側に。
いる―。
(いやだいやだいやだ、こわいこわい)
更に強く身を縮めて、それでも助けてとは口にしない。助けのないことを、助け手などいないことを少女は知っていたから。少女はたった一人、部屋の隅でひたすらに待っていた。
恐ろしいモノがやってくるのを。
そして、恐ろしいモノが去っていくのを。ただ、じっと身を固くして待ち続けた。
それは、さながら地獄の業火に炙られるようで。じわりじわりと耐えがたい痛みがその身をゆっくりと犯していく。
「全く、なんて可愛げのないガキなんだろう。親がそんなに怖いのかい!」
(こんな恩知らず、生まなきゃよかった。薄汚くて、なんてみっともないんだろう)
少女の頭の中に、どす黒い悪意の塊が容赦なくねじ込まれる。その瞬間全身を貫く痛みを、少女はいつも唇を噛んでやりすごそうとするが上手くできたためしはなかった。
今も、また。
生きながら身を焼かれる苦しさに、少女はたまらず身悶え身をよじる。
「男だったらまだしも、よりによって女じゃねえ」
(役立たず。無駄飯ぐらい。早く死んでしまえばいいのに)
「こんな愛想のかけらもない陰気なガキ」
(使い物にも売り物にすらなりゃしない。いっそのこと殺してしまおうか)
ヒッと思わず声を上げれば、恐ろしいモノは気味悪げに眼を眇めた。
(なんて気味の悪いガキなの。まるで人の心を読んでるみたいで薄気味悪いったらない。化け物化け物化け物化け物)
と、
ゆっくりと目の前の恐ろしいモノが形を変え始めた。妖艶な女から年若い男へ。それに気づいた少女の体の震えが更に大きくなる。ただでさえ血色の悪い顔は、今や青を通り越して紙のように白い。
「俺は認めない」
(こんなガキが俺より力が強いなんて絶対に認めない。許さない)
「俺は、俺こそが眼だ」
(全部でたらめに決まってる。こんなヤツに俺が心を読まれるはずがない。化け物化け物化け物化け物)
「あ、あ、あ、あ、あ、あ」
(ごめんなさい―――許して、母さま、兄さま)
引き攣るような声を上げ、それでも少女はひたすらに耐えた。邪なモノがゆっくりと、でも確実に自分の心を喰らっていくのを見ながら身じろぎもせずに。
母が、兄が元から邪なモノだったのではない。
(そうさせたのは私)
悪いのも全て。
(私が、こんな、化け物、だから)
これは罰だ。
沢山の人を苦しめた自分が受けるべき当然の。だから、どんなに怖くても我慢しないといけなかった。それがどれほど耐えがたい痛みを伴っていたとしても。
唯一の希望は、それが長くは続かないということ。
こうして少しずつ蝕まれていれば、苦しみも痛みもいずれは跡形もなく消えてなくなる。なくなってしまえば終わる。楽に、なれる。
(一ノ葉)
柔らかく呼ばれて、少女は瞼を震わせる。
(真白)
続けて優しい声が二つ。その途端、胸にほわりと灯がともる。じわじわと体の奥のほうから温かいなにかが湧き上がって、そうして――やっと少女はゆるりと体の力を抜いた。
自分には過ぎる温もりに泣きたくなる。これだけでもう十分だった。
(私は生きる。生きられる)
例えそれが夜毎繰り返される責め苦に耐えるだけの生だとしても。
約束をした。
秋濫――あの優しい魂を持つ人と。絶対に生きる事を諦めないと。
本当は、すぐにでも側に行きたかったけれど。
約束をした。
炎駒と角端――あの優しい麒麟たちと。絶対に死んだりしないと。
本当は、自分の命なんかどうでもよかったのだけれど。
約束は少女とこの世界を繋ぎ止めるただ一本の鎖になった。
鎖は強固で、同時にとても脆い。
容易には切れまいが、切れる時にはあっけなく切れると知っている。
(最後の時が訪れるその時は、だからお願い、秋濫)
私を連れて行って。
「一人に…しないで」
一人の夜は寂しくて、それだけで全てを終わらせてしまいたくなるから。