相柳
「いた、相柳」
岩陰に身をひそめ、真白が小さく耳打ちした。
ここは森の深部。豊かな湧水がそこここに湧き出る香椿に似た巨木の下である。
その大蛇に似た妖は、たわわに実った果実の下でとぐろを巻いて寛いでいた。その周囲には、大小様々な大きさの骨が散らばっている。食事の後なのだろう。
「…でかい」
十座は目を見張ると、ごくりと喉を鳴らした。
この大蛇、もちろんのこと普通の獣ではない。その証拠に、蛇ではなく人間の頭が合計九つ、一抱えも有りそうな太い胴体に乗っかっている。それぞれの頭は各々意志を持つかのように、四方八方をうねりながらユラユラと揺れていた。つまりはまるで隙がないのだ。
「食後だからって油断しないで。アレは大喰らいで、あの程度じゃ満腹には程遠いんだよ。なにしろ首が九つだから」
九頭分だよと真白。
「――の、ようだな」
そのあまりのおぞましさに頬を引き攣らせながら、十座が答える。
「私がおびき寄せるから、十座はその間に取れるだけ取っといてよ」
「囮なら俺が――」
「それは無理」
即座に却下された。
「相柳は十座が考えているよりずっと素早いんだよ。それにアレは毒を出す。間合いを計れない人間が行ってどうするの。私なら毒を吐かせず、十分に遠くまで引きつけた上で帰ってこられる。十座にそれができる?」
「……分かった」
そう言われれば、反論もできなかった。十座は渋々頷いた。
「それと……十座、一応これ食べといて」
「なんだ、これは」
「桂坐草。毒消しだよ」
手渡した薬草を十座が口に含むのを確認し、真白は妖のいる場所に近づいていく。物音ひとつ立てず、滑るように岩の割れ目に体を滑り込ませる動きは流石に慣れている。そのまま躊躇せず進み、九頭の大蛇の風下へと移動していく。
大したものだ、と十座は感心するしかなかった。
真白の動きには少しの無駄も隙もない。敵も立地も熟知した者の動きだった。
真白はさらに前に出る。妖は気付かない。
その時だった。
相柳は九つの鎌首を一斉にもたげ、ぞっとするような声で―――啼いた。
「っ!…しまった」
真白に気を取られて、つい身を乗り出しすぎた。たまたま十座の方を向いた頭の一つと目が合ってしまったのだ。生気のない中年男の顔は、ニイと唇を歪ませると牙を剥きだして十座に襲いかかってきた。
早い。
それも尋常でなく素早い。十座の背筋を悪寒が這い上がる。とても避けられる速度ではなかった。
「くそっ!」
十座の得物は小刀一本だけである。殺生をしないと決めて、愛用の大刀は封印したのだ。小刀一本に、相手は九頭。狙いも定めきれない。
「十座!」
真白が慌てて駆け寄るのが見える。
「来るな!逃げろ!」
向かってくる頭三つまでを辛うじて避けて、十座は叫んだ。とたんに、目の前に大きく口を開けた子どもの顔が迫る。真っ赤な口内に、不釣り合いなほどに巨大な牙。そのどろりと濁った眼に生気はなく、何かが腐ったようなひどい悪臭が鼻をついた。
「…くっ!」
「駄目だ、十座!相柳の血には毒が――」
刀を振り上げたのはほとんど反射的だ。耳朶を打つのは悲鳴のような真白の声。血液に毒があるなら傷つけるのは危険だ。だが、選択の余地はない。
十座は、咄嗟に妖の左目に刀を突き立てた。抉るように横に引く。血飛沫が横に舞った。十座はわずかに身を引いて、飛び散る飛沫を間一髪で避ける。
だが、妖は僅かも怯まなかった。禍々しい色の血を噴き出しながら、凄まじい速さで十座に襲いかかってくる。これではとても避けられない。
――ここまで、か。
十座が覚悟した瞬間。ごぼりと空気が動いた。目の前で見えない何かの気配が凝り、急速に膨らんでいく。
「…な、んだ?」
「薙ぎ払え、風伯」
凛然と命じる声がする。それと同時に、嵐のような突風が十座と妖の間を席巻した。十座は弾き飛ばされ、背後の岩にしたたかに背を打ちつける。大きな衝撃に、一瞬十座の息が止まる。意志の力で無理やりこじ開けた目に飛び込んで来たのは―――青い炎。
「炎帝、浄化の火を放て」
周囲とそれから私にも、と苦しげな声が続く。
「……真白?」
あわてて身を起こした十座の目に飛び込んできたのは、炎に包まれて喘ぐ真白の背中だった。