真白の決意
呼ぶ声に振り向いて、炎駒は破顔した。
寝そべっていた門の屋根からひらりと空中に身を躍らせ、そのままストンと地面に降り立つ。そうして、炎駒は一向に近寄ってこない相手の所までのんびりと歩を進めた。
「そんな遠くにいないで、もっと近くまで来られたらいかがです?」
「……ご存知でしょうが、俺は門には近づけません」
愛想笑いの一つもない。仏頂面の眉間には遠目にもくっきりと二本線。いつにもまして不機嫌な顔は、一言で言えば凶相といったところか。しかし、麒麟は気にも留めない。
「そうでしたっけ」
真顔でとぼけた炎駒は、赤い目をスウと眇めて十座を見下ろした。
「そろそろいらっしゃる頃合いだと思いましたよ」
邪気のない――ように見える――顔がふと緩む。その笑顔を親の敵さながらの眼差しで睨みつけた後、十座は大きく肩を落とした。
「……分かってたんですね。俺が来るってことを」
「もちろん、分かってましたよ。――真白のことでしょう」
「そうです!というより、それ以外何があると言うんですかっ!」
悲鳴のような声は怒鳴ると言うより叫ぶに近い。最近とみに忘れがちな神獣への敬意を取り繕うこともせず、十座は炎駒に詰め寄った。
「何なんですかアイツは!なんだってあんなに無茶苦茶なんです!俺にはもう訳が分かりません!」
事の始まりは、数日前にさかのぼる。
「よくよく考えてみたんだけど」
その日の朝、開口一番に真白はそう切り出した。
「改まってなんだ。……いや、待て。ちょっと落ち着け、真白」
この娘と出会ったのはごく最近のことだが、その常識を覆すどころか踏みつけた後に蹴散らすような言動は油断ならざるものがあるのだ。十座は警戒感もあらわに眉を寄せた。
真白の頭の中は、時に十座には謎だ。だからだろうか。誇らしげな真白の表情にひどい胸騒ぎを覚えた十座である。
「私は元から落ち着いてるよ。それより、聞いてよ。すっごく良いこと考えたんだから」
「お前がそういう顔をして、本当に良い事だったことがあるのか?……まあ、いい。とりあえず言ってみろ。聞くくらいは聞いてやる」
渋々言うと、真白は嬉しそうに微笑んで、うん、と大きく頷いた。
「剣を使えない今の十座は、自力では身を守れないよね。門の周囲には危険な獣も妖もいないからこの周りで生活するだけならいいんだけど、よく考えたらそれじゃあ門をくぐった後で困るでしょう。だから今日から必要なことは教えてあげるし、私が十座を守ってあげる。十座はそのきれいな顔が唯一の取り柄なんだから、見えるところはかすり傷一つつけないように全力で守るから」
「はあ?……お前なにを―――」
前半はともかく後半が全くもって意味不明だ。思わずポカンとする十座に花が綻ぶような笑顔を向けて、真白は念を押すように言った。
「あ、これは最初に言っとくけど、守るのは十座のためだけじゃないから。十座の友達の地央って奴のためだからね。そこんとこ間違えないで」
「……いや、だから一体何を言ってるんだ。お前が俺を守る?顔を傷つけないって、意味がわからん」
「ここは本当に物騒な場所だから、人が無傷で過ごすのはまず無理なんだよ。だけど、十座はいずれここを出て人間の中で幸せに暮らすわけだから、見た目は死守しないとね」
なんでそうなるんだという十座の問いはきれいに無視された。これは説明ではなく決定事項の事後通達だと真白は笑顔でそう言うと、
「だから、その綺麗な顔を傷つけるのは良くないって言ってるんだよ。なにせ十座は性格が悪い分を顔で補わないといけないんだし」
「お前に俺の性格をとやかく言われる筋合いはない。そもそも顔で補う必要なんぞどこにある」
「なんでよ。悪いでしょう性格。だから補うんじゃないの、その綺麗な顔で」
「だから、そんな必要がどこにあるんだ。っておい、人の話を聞け。顔なんかどうでもいいと何度言ったらわかるんだ!バカか!」
「バカじゃないし、どうでもよくない」
十座の話を遮って、真白はずいと詰め寄った。
「人間にとって見た目はそれはそれは大事なことなんでしょう。外見が多少見苦しくても私は気にしないけど、聞くところによれば人の世ではそう言う者は少数らしいじゃないか。幸い、十座はみてくれだけは良いんだよ。こんなところでうっかり傷モノになったら大損じゃない。労せず楽しく暮らせる資質を、みすみす失う手はないよ。長所は大事にしなきゃ。大丈夫。その綺麗な顔ごと全部、この私が守ってあげるから心配しないで」
にこにこ笑いながら、楽しげに真白は言う。対して十座は苦虫を噛み潰したような顔だ。
「心配しないでってなんだよ。落ち着け、真白。それから俺の話を聞け」
「聞かない。もう決めたし」
「だから、勝手に決めるな!それに、なんで俺が守られなくちゃならないんだ!守るのはむしろ男の俺だろうが!」
「えー、なんで十座が私を守るのさ。十座は私より弱いじゃないの」
拍子抜けするくらいあっさりと真白。その顔を穴があくほど見た後で、十座はため息をついた。
「…………………あぁ、もういい。勝手にしろ」
「うん、勝手にする。………ありがとう」
「……は?」
十座は先に行く後ろ姿を茫然と見た。緩々と首を振る。礼を言われる謂われなどない。
どうせガキの気まぐれ。何もできやしないさ。
十座はその時そう思った。自分は精進潔斎して殺生はせぬと誓いを立てている。食料はもっぱら木の実や山菜、それに果物くらいだから獲物を狩る必要もない。ならばそうそう危険はないし、守られることなどない、と。
だが、これが甘かった。
食物を求め獣が集まり、獣を求めて妖がまたそこに集まる。世の理であった。
自分が口にした言葉を十座が心底後悔するのは翌日のことだ。