傷跡 1
人の気配に目を覚ますと、眼前には腕を組み仁王立ちした白い髪の娘。
「・・・・早いな」
空はまだ薄暗い。夜明け前なのだ。
十座は愛刀を握る手を緩め、ゆっくりと身を起こした。娘の顔を見上げるが、薄闇は思いの外濃く、その表情はうかがえない。辛うじて不機嫌ではないようで、十座はなぜだかホッとする。
「別に早くない。夜の妖も昼の妖も、この時間だけは大人しいから、今なら森に入っても滅多なことでは襲われないんだよ。だから、起きるのはいつも夜明けの前の今時分。あなたもここに居る気なら合わせて」
「分かった。・・・・で、俺は何をすればいい」
十座は立ち上がり、そう問いかけた。
短時間の眠りの割りに、体はすっきりと軽かった。これも麒麟の神威なのだろうか。一旦寝入ってしまえば、眠りは深く安らかでさえあって。
故郷の海を離れて二年。
常に悪夢と隣り合わせだった夜の、死ぬまで訪れないはずだった穏やかな眠りに、今は喜びより困惑のほうが大きい。
―――安らかな眠りなんぞ邪魔なだけだ。
声もなく苦笑する十座をどう見たのか。
真白は訝しげに眉をひそめたものの、ふっと目元を緩ませると口を開いた。
「水汲みに行く。手伝って」
くるりと踵を返した途端、揺れる白い髪が真白の横顔を一瞬照らす。
仏頂面の目が赤い。
それで昨夜のことをありありと思い出してしまった十座は、思わず娘から目を逸らした。直後、耳朶を打ったのは何ともつっけんどんな声だ。
「真白だよ」
「・・・なんだ?」
つられて目をやれば、ひどく素っ気無いそぶりながら、真白は十座の目を見返している。
「だから、ま、し、ろ。私の名前だよ。・・・・あなたが・・・十座がここに居るんなら名前で呼んで。私も呼ぶから」
真白はそれだけ言うと、用事はすんだとばかりさっさと部屋を出て行ってしまった。
雲海に、時折翼のある妖の影がひらりひらりと見え隠れする。その中に麒麟の守るという門が、霞がかかってぼんやり見えた。
十座は戸惑いながらも真白の後を追った。見上げると、山は視界の大半を阻んで呆れるほどに大きい。山頂ははるか雲の上。人の視力では到底追いつかぬほどに、その頂はひたすら高い。住まいにしている洞窟の先には、緑深い木の海が見渡す限り広がっていた。
森は鬱蒼と茂った木々で昼でもなお暗い。開けきらぬ早朝となれば、なおさらに暗かった。注意深く観察しなければ分からないほどの小さな獣道を、押し黙ったまま二人は歩き続けている。
十座は、前を行く真白の後ろ姿を見るともなしに見た。驚いたことに、真白はここでも丸腰だった。持ち物といえば、肩にかけたなめし皮の大きな袋一つきりだ。歩く度、肩口辺りで白い髪がサラサラと左右に揺れる。肩が、腕が細い。急に昨夜の感触が蘇って、十座は一人静かに狼狽した。たまらず目を逸らそうとした瞬間、その白い二の腕に大きな刀傷を見つけて十座は思わず目を見張る。
よくよく見れば、目立つ傷跡は腕だけにとどまらない。
わずかに見えるくるぶし辺りにも引き攣れたような傷があるし、首筋の下や右手の甲から肘にかけて、獣か妖にでも切り裂かれたと思わしき痕が見える。額の目立つ大きな傷が目くらましになって、今まで気づかなかったがこの娘―――
「・・・傷だらけじゃないか」
無意識に口に出してしまったらしい。ぼそっと呟いた十座の声に、前を歩く娘がピタリと足を止めた。くるりとその場で振り返り、
「悪かったね。傷だらけで」
じろり凄む。
失言を悟った十座がぐっと詰まったその隙に、真白は触れるほど近づいて下から睨み上げてきた。その黒藍の瞳は海の底のように澄んでいて。
直視できない十座は、それを避けるようについと視線を逸らすしかない。逸らした視線の先には抉れたように深く鋭い爪の痕。滑らかな白い額に走る見るからに痛々しい傷跡を、しかし真白は見せ付けるように晒すとにこりと笑った。
「言っとくけど、私はこんなの全然気にしてないからね。この傷も他の傷も、恥じるようなモノじゃないの。これは全部、私が大切なものを守った証だから。隠すつもりもないし、見たいなら見せてあげる。で、十座はどこの傷が見たいのさ。額?腕?それとも足?はっきり言ってよ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・あー、いや。俺が悪かった。・・・・・・・・・・・・すまん」
十座は苦りきった顔で呟くと、悟られないよう吐息を洩らす。見たい箇所なんて誰が言えるか。本人に自覚はまるでないようだが、真白はれっきとした女なのだ。傷―――それも顔やら足やらの―――を簡単に見せてもらうわけにはいかない。真っ直ぐな眼差しの奥に傷ついた色を見つけてしまった十座としては、なおのこと言えるわけもなく、それ以上に―――。
目の前の傷跡は無残につきた。
一体どれほどの深手だったのだろうと思った瞬間、十座はつりこまれる様に手を伸ばしていた。誓って意識してのことではない。手は勝手に動いて傷に―――真白の額にスルリと触れた。
その瞬間。
「・・・あ・・・」
真白が弾かれたように後ずさる。
「・・・なんだ?・・・」
ピリリと痺れるような不思議な感覚に、十座がピタリと動きを止める。
真白はハッと目を見張り、伸ばされたままの十座の手を払いのけた。そうして小さく唇を噛む。
「・・・・・ごめん、十座」
「・・・・・いや、こちらこそすまん。つい―――」
ついなんだと内心大いに焦りつつ、自分の手と真白を交互に眺めて十座はつかの間言葉を見失う。なぜ触ったのか。今の感覚は何なのか。じっと自分の手を見る十座に、慌てたように真白が言った。
「別に触られたくらい何でもないよ。ちょっと驚いただけだから。この傷は特別で大切な傷で龍を守った傷だったから!」
早口で捲くし立てていた真白は、そこで突然、あ、と叫んで両手で口を覆った。如何にも口を滑らせましたという顔に、冷静さを取り戻した十座が目を細めおもむろに口を開く。
「ほう、龍をな。ということは真白、お前龍に会ったんだな」