啼く麒麟
「眠れませんか」
突然話しかけられて、十座は小さくため息をついた。
横になっても一向に眠気はやってこなかった。仕方なくこっそり起きだして、十座は一人、月明かりの元で刀の手入れをしていたのだ。振り払っても振り払っても、真白の泣き顔が頭から離れない。離れて、くれない。
「気配を消して近づくのは止めてもらえませんか。・・・・斬りますよ」
「真顔で怖いことをおっしゃる。冗談にしても笑えません」
「俺は冗談は言いません。それにこれは地顔です」
「やれやれ、ご機嫌斜めですね。取り付く島もない」
そう言いながら近付いてきたのは、赤毛の麒麟。炎駒だ。少し離れた場所で歩を止めると、しゃがみこんで足を投げ出した。
「・・・まだ、匂いますか」
この麒麟が十座に近づいたのは初めだけだ。友好的な雰囲気になってからは、決して手の届くところにはやってこない。十座の体に染み付いた血の穢れは、少しばかり身を清めたくらいでは容易に消えはしないのだろう。
「ああ、やはりお気づきになりましたか。んー、先ほどは咄嗟に触ってしまいましたが、殺生の血は私には少々きついのですよ。気を悪くされたら申し訳ないですが、こればかりはどうしようもありません」
「いえ、それは・・・・あなたが謝るようなことではなく俺のせいです。ですがご安心を。もう当分殺生はしません」
「ほう、それはまたずいぶんと殊勝な事をおっしゃる」
炎駒は笑う。
「俺も門を通りたいですから」
「でしょうねえ。私としても、いくらなんでもここまで血で穢れた人を通すわけには参りませんから」
「ええ。ですからご心配には及びません。少なくともここにいる間は、もう何も傷つけません」
「妖も?」
「ええ、妖も」
「そうですか。それは良かった」
炎駒は言うと、何よりですねえと相好を崩した。屈託のない笑顔だった。
「それより十座、あなたさっきまで真白と一緒に居たでしょう。仲良く何を話していたのですか」
「・・・・・・や・・・・・・それは、別になにも」
痛いところを突かれて、十座はとっさに口ごもった。視線を泳がせつつ、もごもごと言い訳めいた繰言を口にする。聖なる獣はそれを眺めてニヤリと笑った。
「なーにが「それは別に」なんですか、この色男。顔赤いですよ、十座」
「あ、赤くなど」
ないと言いかけ、十座は小さく舌を打った。目の前には楽しげに揺れる赤い眼。からかわれたことに気付いても、相手が麒麟では怒るに怒れない。
「・・・なにを想像されているかは分かりませんが、本当に何もないですから。それに麒麟の想い人に手を出して、これ以上恨みを買いたくない」
「私は元から十座のことを恨んでやしませんよ。それに、真白のことは心から好きですが、人が麒麟の伴侶になることはありません。残念ですが」
どうです安心しましたか。そう言って炎駒は笑う。
「なんで俺が!その・・・あの娘とは、昔の・・・昔話をしていただけで、別に大した話をしたわけじゃありません」
逸らした頬が仄かに赤い。稀なる霊獣は横を向いてしまった十座を楽しそうに見て、
「暗い中で二人きり。若い男が何もしなかったなんて、ちょっと信じられませんね。手ぐらいは」
「握ってません!」
「なら口づけ―――」
「してません!」
「なにむきになってるですか。なんか却ってあやしいんですけど」
炎駒は噴き出すと、のけ反ってケラケラと子どものように笑った。十座がげっそりと疲れた顔をする。
「ねえ十座。真白はいい子でしょう。あの真っすぐな瞳に見つめられると、嘘を吐く気も失せてしまう。あの子の魂は、どこもかしこも真っすぐで真っ白です。だから、私はあなたが真白を好きになってもちっとも驚きませんよ。怒ったりもしませんし」
伝説の聖獣は豊かな髪をゆらり揺らす。
十座がもう一度、今度は盛大なため息をついた。成り行きとはいえ、抱き合ったなどとバレたら一体何を言われるかわかったものではない。十座は心に蓋をすると、何事もなかったような顔をした。
「確かに暗かったですよ。なにしろ夜ですから」
「なるほど」
「それに、確かに二人きりでした」
「それで?」
「・・・・殴られたんですよ。散々。後、馬鹿だと罵られました」
言った瞬間爆笑されて、十座は渋面になる。
「くくくっ、・・・・そうですか。殴られましたか。十座、あなた駄目ですよ。いくら真白が可愛いからといって、無理やりは良くないです」
「無理やりじゃない!・・・って、いや、だから、炎駒が思ってるようなことは何もないと言ったでしょうが!ただ話をしただけです」
「それなのに殴られたんですか」
「・・・そうです」
不機嫌そうな顔をじっくりとみて、炎駒はすっと真顔になる。
緩やかに巻く赤毛はまるで焔のようだった。瞬間、別人のような神気を帯びて、齢千年の神獣は厳かに天を仰ぐと、
“良き哉”
―――啼いた。
「・・・何を・・?」
十座は訝しげに眉をひそめる。
心地よい音階に乗ったその音声は、まるで楽の音のようだった。不思議な音は耳に響いて、しかしどういうわけか聞きとれない。さっきの神々しさが見間違いに思える顔で、麒麟は、何も、とにこやかに首を振り、
「真白がそうしたならそれでいいのです。十座はあの子に殴られる必要があったのですから」
不思議なことを言った。