批評が語るもの
AIブームの中で、私もAI(Claude)を使っている。依存していると言っていいくらい使っている。
ただ、私がAIでやめた事がある。それは自分の文章をAIに添削させる事だ。
AIに文章を添削させると、必ずと言っていいくらい「ここは論理的なつながりが弱い」と指摘してくる。これについては少し考えたのだが、AIの言うように文章を直すと、理屈としての破綻は少なくなる。論理的なつながりはスムーズになる。しかしこれをやっているとどうも自分の文章が駄目になるような気がしたので、途中からやめた。
それで私が考えたのは、果たして論理的に破綻がなく、スムーズな繋がりがある事は良い事なのか、という事だ。
noteにはAIに全文書かせた文章が大量にある。それらの文章はみな似た相貌をしている。奇妙に論理が均質であり、奇妙に熱量が一定である。結論は穏当であり、含蓄ありそうだが、あまり乗り気ではなさそうだ。とはいえ、知識とか論理の繋がりは間違っていないので、AIが書いた文章が価値がないわけではない。
私が、自分自身を反芻して考えたのは次のような事だった。私自身、批評を書いていて、自分の中で手応えを感じたのは二十代後半くらいだった。
その時に私が感じたのは、自分の中のある感覚を言葉が追いかけているという、そうした感覚だった。これは言葉、つまり概念でずばりと指させる事ではない。
普通の文章、ネットでよく見る記事は概念によって様々な事を表現できるという前提に立っているように見える。悲しい事があれば悲しいと書き、嬉しい事があれば嬉しいと書く。そこに「いいね」がつく。共感が成り立つ。
一体、そこでは「何」が共感されているのだろうか。感情だろうか。感情を「悲しい」とか「嬉しい」とかいう言葉がそのまま現しているのだろうか。
言葉は言葉でないものを追う事ができる。言葉が論理を紡ぎながらも、論理ではない部分がふいに現れる。ここに飛躍や断絶、矛盾が生じる。
これをAIに添削させると、「断絶があるから直せ」と言う。直す。すると飛躍や断絶、矛盾は消える。論理としては丸くなり、スムーズになる。
ただ、私が書いている感覚からすると、飛躍のある箇所でも、無意識的に何かを感じている。無意識に直覚しているある感覚は同一であり、論理がAからBへ飛んでも、その底には同一のものがある。
これは理屈で考えると、私の文章は飛躍や断絶、矛盾がある部分の方がかえって興味深いという事になる。何故かと言うと、AとBとの間に断絶が生じており、その底には同一のものがある、するとかえってAとBとがそれまでの論理よりもより広い角度で私の中にあるものを指している事になる。
飛躍や断絶、矛盾の底に同一のものがあり、その領域は飛躍が大きいほどに大きくなる。
もちろん、こうした方法を安易に信用するのは危険であり、単なる矛盾を「無意識的に繋がっている」と言い訳する機会を与えてしまうので、自己抑制は必要となる。
私がリスペクトしていたある保守派のインテリは、「私の書いている文章の矛盾がある箇所が一番価値がある」と言っていた。これは私の言っている事に近いのではないかと思う。
それと、私が思うのは、ベルクソンだ。私は長らくベルクソンの哲学がわからなかった。何を言おうとしているのかわからなかった。
ただ、ベルクソンの本をぱらぱらと読んでいて、ベルクソンが自らの哲学を発見した事について「私が言葉による解決を投げ捨てた日」と言っていたのを知った。それで、少しベルクソンがほどけた気がした。
これは、私は仏教の「指月の例え」を使って説明している。ベルクソンは言葉という「指」を使って、「月」という真理を指さしていた。しかし私は指の方が本体だと思っていた。ベルクソンの言葉の概念が答えだと思っていた。しかし、そうではなかった。言葉は真理を指差す道具でしかなかったのだ。
これは、自分の背後に答えが張り付いているのだが、背後を見る事を忘れて、前の方を血眼になって探しているような状態に近い。ふと、何気なく振り返ると、そこに答えがあった、という感覚に近い。
ここで私が言いたいのはあくまでも感覚と言葉の関係である。ベルクソン自身の哲学が何であるかという議論とはずれた話をしている。
小林秀雄の代表作は評論「モーツァルト」という事になっている。これは、音楽家のモーツァルトを論じたものにも関わらず、作家のゲーテやスタンダールの話をしたり、道頓堀を歩いていると突然、モーツァルトが聴こえてきたというような事が語られている。
これらはきちんとしたモーツァルト論ではない、という批判は根強い。しかし、そもそも、きちんとしたモーツァルト論とはどういうものだろうか。
それはモーツァルトの音楽を分析的に論じたものだという事になるだろう。もちろん、これ自体は間違っていない。
私は、小林秀雄は「読む」とか「聴く」とかいう当たり前の事を徹底的に突き詰めたのだと思う。ある作家の作品を読む。しかし「読む」とはどういう事なのか。「聴く」とはどういう事なのか。
小林秀雄は作品の形態を辿り、その背後にある芸術家の魂にまで降りていく。そして不思議に、あるいは必然的に、その魂自身は小林秀雄自身の相貌を映している。
モーツァルトの音楽があり、その音楽を徹底的に聴く。するとある一つの相貌が浮かび、それをモーツァルトの魂と呼ぶ。するとこの抽象化された実体から様々な相が浮かんでくる。ゲーテの言及、スタンダールの言及、自分自身のモーツァルト体験。これらが、小林が降りていった魂の層から、比喩として浮かんでくる。
「なべて移ろい行くものは、永遠なるものの比喩にすぎず」と、ゲーテは「ファウスト」のラストに記しておいた。小林秀雄も同様、彼なりの永遠なるものの比喩として、様々なエピソードを散りばめた「モーツァルト論」を書いた。
こうした言語表現で、表現されようとしているのは概念としての結論ではない。そこには飛躍があり、断絶がある。音楽家について論じているのに、私的なエピソードがあり、作家のエピソードが盛られている。
ただこれら全ては小林秀雄が形式としての音楽に徹底して従う事によってたどり着いた抽象から、逆算的に弾き出された表現形態なのだと私は思う。
批評というものはこのようにして言葉の先にあるものを追い求める事ができる。しかし、そうなると言葉は難しくなる。言葉は目的ではなく道具となるからだ。
今のところ、AIはこれを感知できない。AIが得意なのは概念としての連結であったり、同一性や差異の認識であるからだ。こうした事は現状、AIに任せるのは難しい。
そういうわけで、私はこれまでのところ、書かれた文章にはAIの手は入れない事にしている。文章は自分で書く事にしている。
自分で書く意味があるのは、私にとって文章の価値は概念としての正確さではなく、文章全体が私自身の魂の形態として作用しているからという事になるのだと思う。
これは言葉で書かれている。言葉という道具で書かれている。しかし言葉が持っている特定の概念が答えなのではない。
そうではなく、言葉が不器用にも行ったり戻ったりするその過程であるものを指し示そうとしている、そこに求められている何かがある。
言葉はこの最後の答えに到達しないように自らを制する事によって、言葉自身が、その細部も含めた全体を一つの身体そのものであるように、一つの結論にする事ができる。
この時、批評というものは、その文体、文章そのものが身体であると同時にその奥にある魂の発露だと言えるものになっているのではないか。




