「ただ洗濯の指示を出しているだけ」と迎賓館を追放された令嬢ですが、極上のリネン管理術で隣国の大使館にスカウトされました〜今さらシーツがカビだらけだと泣きつかれても、もうあなたの寝床はありません〜
「——以上が、今期滞在予定の各国外交官および王侯貴族に向けた、寝具とリネン類の配分計画です。明日到着される西風の国の使節団には、故郷の乾燥した気候に近いパサリナ織の麻をご用意して。柔軟剤は一切使用せず、アイロンの熱のみで繊維を立たせてください」
迎賓館の地下、蒸気と石鹸の香りが立ち込める巨大なリネン室。
エレオノーラ・フォン・ノイマンの声は、絶え間なく回る脱水機や魔石炉の低い稼働音に負けることなく、三十人を超える女官たちの耳へとはっきりと届いていた。
「一方で、南棟のスイートに長期滞在されているエルトリア公爵閣下は、就寝中の発汗が多い傾向にあります。朝のシーツの張り具合から見て、吸水性の高い三層綿の敷きパッドに変更を。掛け布は通気性を最優先した絹の肌掛けを二枚重ねになさい。……それから、もうすぐ雨季が始まります」
エレオノーラは、分厚い革張りの帳簿——『リネン管理台帳』に視線を落とした。
そのページには、何百種類もの布のサンプルが留められ、インクの文字がびっしりと書き込まれている。各国の要人の肌質、香りの好み、アレルギーの有無。シーツやタオルの洗濯回数、繊維の摩耗状況、修繕と廃棄のサイクル。
「屋内乾燥室の魔石炉の出力を二割上げ、風通し用の送風陣には魔力を満充填しておくこと。雨季の生乾きの匂いは、迎賓館にとって絶対的な死を意味します。——指示は以上よ。各自、持ち場へ」
「「「はい、エレオノーラ様!」」」
一斉に散っていく女官たちを見送りながら、エレオノーラは台帳に羽根ペンを走らせた。
王都クロンシュタットの中心にそびえ立つ王立迎賓館。千人を収容できるこの巨大な施設の「睡眠と清潔」のすべてを底辺で支えているのが、筆頭管理官であるエレオノーラだった。
「エレオノーラ様。東棟の予備シーツ三十枚、洗濯が完了しました。第五乾燥室へ回します」
「待って。今日の湿度は七十パーセントを超えているの。第五ではなく、通気魔陣のある第二乾燥室へ。麻の繊維は湿気を吸いすぎると重くなって肌触りが死んでしまう。乾き切る前に一度取り出して、蒸気アイロンでプレスしてから余熱で乾かして」
「畏まりました!」
布は生き物だ。同じ綿でも、産地の土壌と織り方が違えば洗い方も変わる。天候や湿度によって乾燥の手順を変え、客人の体調に合わせて糊の効き具合をミリ単位で調整する。十回洗ったシーツは柔らかいが破れやすく、新品のシーツは丈夫だが肌に馴染まない。それを見極め、五回洗ったもの、十回洗ったものを完璧にローテーションしていく。
その微細な調整の積み重ねが、長旅で疲れ果てた要人たちを包み込み、最高の睡眠環境を提供するのだ。豪華なディナーでも、豪奢な調度品でもない。ベッドに入った瞬間の「安堵」こそが、国と国との交渉を円滑にする何よりの外交兵器だった。
「——またこのカビ臭い地下室か。たまには地上に顔を出したらどうだ、エレオノーラ。見ていて憂鬱になる」
唐突に鉄扉が開き、むせ返るような強い香水の匂いが地下室に流れ込んできた。
女官たちが一斉に手を止めて頭を下げる。
現れたのは、金糸の刺繍が入った上着をいかにも「着崩している」風に見せた男——王室典礼官にして、エレオノーラの婚約者であるユリウス・フォン・オストヴァルト伯爵息男だった。だが、彼よりも目立っていたのは、ユリウスの腕にねっとりと絡みついているけばけばしい真紅のドレスの令嬢だ。
「ユリウス様。今は使節団のためのシーツの微調整を——」
「もうよい。お前のその地味で湿っぽい姿には、心底うんざりさせられる」
ユリウスは吐き捨てるように言った。手には純白のハンカチを握り、口元を覆っている。ここは彼の香水で充満しているというのに。
「王立迎賓館の顔たる私が、ただの『洗濯係』を妻にするなど、社交界の笑い者だ。実家のノイマン家が没落しかかっているとはいえ、少しは身なりに気を使え。いつも石鹸と湿気の匂いをさせて、指先は布擦れの跡ばかり。……はしたないにも程がある」
「迎賓館の裏方を預かる身として、実務に支障のない服装と香りを心がけているだけです。強い香水は繊維に染み付き、賓客の睡眠を妨げますから。それに、その方は——」
「口答えをするな!」
ユリウスは苛立たしげに声を荒らげ、隣で腕を組む令嬢の肩を抱き寄せた。令嬢——シャルロッテは勝ち誇ったような、そしてエレオノーラを憐れむような笑みを浮かべていた。
「お前との婚約は破棄する。そして、今日をもって筆頭管理官の任も解く。明日からは、この美しきシャルロッテが筆頭管理官となる。彼女の提案した『薔薇の香りの最高級柔軟剤』で、迎賓館のすべてのシーツを満たし、賓客に高貴で華やかな香りを提供するのだ!」
エレオノーラの手が、台帳の上でピタリと止まった。
「……すべてのシーツに、薔薇の香りの柔軟剤を?」
「そうだ。それこそが最高のおもてなしというものだ。お前のようにただシーツを洗って干すだけの無味乾燥な見世物小屋レベルのやり方など、三流の宿屋と変わらん」
「お待ちください、ユリウス様。それは絶対におやめください」
エレオノーラは静かだが、確固たる声で反論した。
「西風の国の使節団の中には、強い植物性の香料にアレルギーを持つ方が多数いらっしゃいます。それに、来月からは雨季に入ります。柔軟剤を過剰に使用すれば繊維が水分を含みやすくなり吸水性を失います。地下乾燥室の今の魔石炉の稼働率では、生乾きによるカビの発生を絶対に防ぎきれません。リネンのローテーション計画が——」
「言い訳など聞きたくない! 雨季だろうが何だろうが、熱で乾かして香水でも振りかけておけばごまかせるだろうが!」
ユリウスは全く聞く耳を持たなかった。彼にとってシーツとは、汚れたら捨て、いい匂いをさせておけばよい単なる「布切れ」でしかないのだ。
「いいか、エレオノーラ。お前は毎日、女官に『ただ洗濯の指示を出している』だけだろうが! 布を水につけて絞って干す。そんなものは誰にでもできる裏方の単なる家事だ。ただの家事係が、魔法使いか錬金術師にでもなったつもりで偉そうに私に意見するな。さっさと台帳を置いて出ていけ!」
——ただ、洗濯の指示を出しているだけ。
その言葉が、エレオノーラの五年間のすべてを否定した。
毎日、何十人もの賓客の体調を病的なまでに観察し、生地の経年劣化を指先の数ミリの感覚で探り当て、天候を読み切って洗いと乾燥のサイクルを回してきた。迎賓館の『質』を底辺で支えていたのは、あの薄っぺらい男の作り笑いでも、壁を飾る無駄に高価な絵画でもない。長旅で心身ともに削られた要人たちを包み込み、明日への活力を与える『完璧な睡眠」なのだ。
それを、この男は五年間、一度も見ようとしなかった。知ろうともしなかった。少しも理解していなかった。
胸の奥で、カチリ、と何かが凍りつく音がした。怒りですらない。完全なる見切りだった。
「……承知いたしました」
エレオノーラは抵抗をやめた。深々と、完璧に角度のそろった一礼をし、五年間の血と汗が染み込んだ分厚い『リネン管理台帳』をポン、と作業台の上に静かに置いた。
「引継ぎの記録は、すべてその台帳に記してあります。雨季の防カビ対策と、各布地の洗濯耐久サイクル、アレルギーを持つ賓客のリストも完璧に記載していますので、どうかお役立てください」
「ふん。こんな汚らしいノートなど、シャルロッテのごみ箱にでも捨ててしまえ。行くぞ、シャルロッテ。この地下室の臭いには耐えられん」
「ええ、ユリウス様。明日からは私が、迎賓館をむせ返るような薔薇の香りでいっぱいにして差し上げますわ」
二人が去っていった後、地下室には重い沈黙が落ちた。
「エレオノーラ様……! そんな、突然すぎる!」
「私たちが上層部に抗議します! エレオノーラ様がいなければ、一日に一万枚もの洗濯物は決して回せません!」
泣き叫ぶ女官たちに、エレオノーラは優しく、だが諭すように微笑みかけた。
「ありがとう。でも、いいの。決まったことですから。あなたたちは優秀よ。今まで私が教えた通りにやれば、きっと大丈夫。……ただ、湿度計の確認だけは絶対に怠らないでね。少しでも気を抜けば、麻は死にます」
エレオノーラは私物だけを小さな鞄に詰め、振り返らずに王立迎賓館を後にした。
五年間の知識と経験が詰まった台帳は、主を失って作業台の上にポツンと残されていた。明日にはゴミ箱に捨てられる運命にあることも知らずに。
迎賓館を去ったその日の夜、エレオノーラは王都の片隅にある底辺層向けの安宿の一室にいた。
持たされた退職金ははした金で、実家のノイマン男爵家はとっくに借金まみれで解散状態だ。帰る場所など最初からなかった。明日からどうやって生きていくか。どこかの紡績工場で糸繰りの仕事でも探すしかないだろうか。
溜息をつきながら、ひどく硬いベッドに腰掛けた瞬間——彼女の手は無意識に、安宿の擦り切れたシーツの布地を撫でていた。
「……この綿。洗い方は無茶苦茶だけれど、繊維そのものは上質ね。西の山岳地帯で作られた純綿だわ。ただ、洗濯のときにアルカリ性の強い安物の石鹸を使いすぎている。それに、干す時の引っ張りが足りなくて空気が抜けず、繊維が縮こまってしまっている。……かわいそうに、布が泣いているわ」
完全に職業病だった。自分が寝るだけの安宿のベッドだというのに、布の無惨な死に様を見過ごすことができなかった。
エレオノーラは立ち上がり、シーツを一度ベリッと剥がした。パンパンと手際よく空気をはらませ、布の縦と横の繊維を魔法のようになめらかに一直線に整える。そして、もう一度ベッドにふわりと掛け直し、四隅を正確な角度で折り込んだ。
それだけで、ごわごわと固まっていた安宿のシーツが、まるで高級ホテルのようにふっくらと波打ち、肌触りが劇的に改善された。
「——素晴らしい手際だ」
不意に、半分開け放たれていたドアの隙間から、低い声がした。
黒の外套を羽織った、長身の男が立っていた。銀色の髪に、鋭い氷のような青い瞳。外套の下からは精緻な仕立ての軍服が覗いており、このような安宿には到底似つかわしくない、威厳に満ちた人物だった。
「失礼。壁が薄くてね。隣の部屋の者だが、君のそのシーツの整え方があまりに見事で、つい見入ってしまった。……君は、一瞬で布の呼吸を理解しているように見えた。一体何者だ?」
男の言葉にエレオノーラは警戒したが、男の首元を見た瞬間、ハッとした。
外套の襟から覗く男の白い首筋が、かすかに、しかし酷く赤く荒れていたのだ。
「……重度の柔軟剤アレルギーに、極度の乾燥肌ですね」
エレオノーラは無意識に答えていた。
「その襟元の荒れ方からすると、植物性の染料にも少し反応しておられる。おそらく、この安宿の強い洗剤と、アイロン掛けの際の粗悪な糊が原因でしょう。よろしければ、私が個人的に持参した『無生成りの木綿手ぬぐい』をお貸しします。お湯で濡らして首元に当てれば、少しは楽になりますわ」
男——隣国ヴァイスブルク帝国の特命全権大使レオンハルト・フォン・クライベルクは、目を丸くしてエレオノーラが差し出した布を受け取った。
そして、言われた通りにお湯で温め、首に当てた瞬間——その極上の肌触りと、痛みを和らげる自然な温もりに息を呑んだ。
「この布……信じられない。私を長年苦しめてきた生地の摩擦が一切ない。ただの木綿のはずだ。絹よりも柔らかく、全く肌に突き刺さらない」
「布は生き物ですから」
エレオノーラはふっと微笑んだ。自分が今日、すべてを失ったのだということを一瞬忘れて。
「洗い方と乾燥のさせ方で、毒にも薬にもなります。その手ぬぐいは、私が三年かけて繊維を『育てた』ものです。漂白剤は使わず、月光乾燥で自然な白さを引き出しました。肌の弱い方には最適です」
「……育てた、か」
レオンハルトは手ぬぐいを放し、じっとエレオノーラを見つめた。その氷青色の瞳に、強い光が宿る。
彼は極度の不眠症と皮膚炎に悩まされており、各国の最高級ホテルを転々としても、シーツの質に満足したことが一度もなかった。今回、お忍びで泊まったこの安宿で、まさか布の真髄を完全に理解する者に出会うとは。
「単刀直入に言う。君、我が帝国の大使館へ来てくれないか。今すぐだ」
「えっ?」
「私はヴァイスブルク帝国大使のレオンハルト。我が大使館のリネン事情は致命的に最悪でね。不器用な軍人ばかりで、皆シーツのごわつきと汗疹に悩まされている。……君の技術は、ただの洗濯ではない。芸術だ。大使館の総管理官として、君を厚遇で迎えたい」
芸術。
ユリウスからは「誰にでもできる家事の雑用」と吐き捨てられた仕事を、この高位の貴族は真っ直ぐに「芸術」と呼んだ。
「私でよろしければ……」
エレオノーラの瞳から、一筋の涙が溢れた。それは悲しみではなく、自分の五年が報われた安堵の涙だった。
「喜んで、お引き受けいたします」
一方その頃、王立迎賓館の上層階では、悲鳴と怒号が飛び交っていた。
事の始まりは、エレオノーラが去った三日後のことだった。
新しい筆頭管理官となったシャルロッテは、地下のリネン室に足を踏み入れるなり「臭い!」と鼻をつまんだ。
「本当にカビ臭くて地味な部屋ね! こんな所のシーツをお客様に出していたなんて信じられないわ。さあ、今すぐすべてのシーツに、この『薔薇の香りの最高級柔軟剤』を原液のまま大量投入しなさい!」
「お、お待ちください! 原液では繊維が吸水性を完全に失います。それに、明日は西風の国の使節団が——」
「うるさいわね! 私の指示に従えないならクビよ! 私はユリウス様の婚約者なのよ!」
絶望する女官たちを尻目に、致死量に等しい大量の薔薇の香料がシーツにドバドバと染み込まされた。
結果——その夜から、迎賓館は地獄絵図と化した。
西風の国の使節団全員の肌に真っ赤な発疹が現れ、呼吸困難を訴える者が続出したのだ。当然だ。彼らは強烈な植物性香料に重度のアレルギーを持っていた。エレオノーラが残した『リネン管理台帳』にはそのことが朱書きで警告されていたが、台帳はシャルロッテによって初日にゴミ箱に捨てられていた。
「どういうことだ! 我が国の使節に対するテロ行為か!」
「ま、申し訳ございません! すぐに別のシーツを——!」
平謝りするユリウスだったが、悲劇はそれでは終わらなかった。
季節はついに、彼らが最も恐れていた『雨季』へ突入したのだ。
エレオノーラがいれば、魔石炉の微細な出力調整と通気魔陣の切り替えによって、どんな大雨でも地下室で完璧な乾燥が行えていた。だが、シャルロッテにはその知識が全くない。
「なんかジメジメするわね。どうして乾かないのよ。もう、魔石炉の火力を最大にして一気に炙りなさいよ!」
無茶な指示。急激な熱風を当てられた高級な絹や麻のシーツは、湿気を含んだ状態から一気に乾燥させられたことで水分と共に繊維が破壊され、パリパリにひび割れて裂けていった。
逆に厚手のタオル類や綿のシーツは中まで乾かず、生乾きの悪臭を放ち始めた。過剰に投入された原液の柔軟剤が湿気と熱に反応し、最悪の『黒カビ』の温床となってしまったのだ。
「臭い! このシーツはカビが生えているぞ! 吐き気がする!」
「布が破れて体に巻き付いた! 顔を拭いたらタオルから生ごみの匂いがしたぞ! こんな三流以下の迎賓館には二度と泊まらん!」
エルトリア公爵をはじめとする各国のVIPが連日激怒し、次々と宿泊をキャンセルして他国のホテルへ逃げ出していった。
一週間もしないうちに迎賓館の稼働率はゼロとなり、国際的信用の失墜の責任を追及されたユリウスは、国王から厳しい謹慎処分の勅命を受ける事態に陥った。
「ど、どうしてだ! ただ汚れた布を洗って干すだけだろう!? 薔薇の香りをつけただけで、なぜシーツが溶けて千切れるんだ! なぜタオルが腐るんだ!」
異臭の立ち込める地下のリネン室で、ユリウスは頭を抱えて泣き叫んだ。
シャルロッテは「私悪くないもん! シーツが安物だったのよ!」と泣き喚いてとっくに実家に逃げ帰っている。
ようやくユリウスは気づいたのだ。布は、ただ洗えばいいというものではなかった。「ただの洗濯」などという雑用はこの世に存在しなかった。あの薄暗い地下室でエレオノーラが毎日見ていたのは、天気でも布でもなく、この『迎賓館の信用そのもの』だったのだと。
それから一週間後。
なりふり構わず王都中を走り回ったユリウスは、ついに隣国ヴァイスブルク帝国の大使館で優雅に働く元婚約者・エレオノーラを見つけ出した。
「エ、エレオノーラ! 戻ってこい、お前が必要だ!」
大使館の豪奢な白亜のロビーに駆け込んできたユリウスの姿は、ひどくやつれ、王室典礼官の華やかな面影は微塵もなかった。豪華だったはずの服からは、微かに生乾きのカビのすっぱい匂いが漂っている。
「お前がいないとシーツが回らない! 使節団は帰るし、新しい布を買う予算も尽きた! 頼む、昔のようにあの地下室で、俺のために洗濯の指示を出してくれ!」
ロビーの奥。真新しい『大使館専用リネン管理台帳』にペンを走らせていたエレオノーラは、整然と畳まれた極上のリネンの山から顔を上げ、静かに振り返った。
その翠緑色の瞳には、かつての婚約者への未練はおろか、何の感情も浮かんでいなかった。ただの「見知らぬ通行人」を見る目だった。
「おかしなことをおっしゃいますね、ユリウス様」
彼女は、かつて自分が言われた言葉を一語一句たがわずに、完璧な発音で返した。
「私は毎日、ただ女官に『洗濯の指示を出している』だけでしょう? 布を水につけて絞って干す。そんな誰にでもできる裏方の雑用だと、ご自身でおっしゃったではありませんか」
「そ、それは……! 俺が間違っていた! あのおぞましい雨季の湿気! 破れるシーツ! あの『台帳』がないと、天気のサイクルも布の寿命も何も分からないんだ! 頼む、戻ってきて台帳を書き直してくれ!」
「その汚らしいノートは、貴方がゴミ箱に捨てさせたはずですけれど?」
冷たく、完璧な拒絶だった。
ユリウスが絶望に顔を青ざめさせたその時、大階段の上から静かな、しかし圧倒的な威圧感を持つ声が降ってきた。
「我が才能ある総管理官に何か用かな。王家直属の泥棒ネズミよ」
現れたのは、レオンハルト大使だった。首元の荒れはすっかり治り、肌触りの良い上質なスーツを完璧に着こなした彼の威風堂々たる姿に、ユリウスは恐怖で腰を抜かしそうになる。
「た、大使閣下……! そ、その女は我が迎賓館の職員で、私の——」
「黙れ」
レオンハルトの氷青色の瞳が、ユリウスを射抜く。その視線は物理的な暴力よりも重かった。
「彼女の紡ぎ出す極上の睡眠環境を『ただの洗濯』と見下した愚か者が。彼女はすでに我が帝国大使館の最重要職員だ。お前のような、布の悲鳴すら聞こえない無能の元に還すつもりなど毛頭ない」
「そ、そんな……」
「帰れ。そして、カビ臭く湿った寝床で己の無能を一生悔やむがいい。二度と彼女の視界に入るな」
ヴァイスブルク帝国の屈強な警備兵に両脇を抱えられ、「エレオノーラァァ!」と泣き叫びながら無様に引きずり出されていくユリウスの背中を、エレオノーラは冷ややかに、しかしひどく晴れやかな気持ちで見送った。
彼がこれからどうなるか、考える必要もない。あの男の人生のサイクルは、迎賓館の破れたシーツと共に、とっくに擦り切れて破綻しているのだから。
「……ひどいカビの匂いだったな。後でロビーに風を通しておこう」
「ふふ、そうですね。それからレオンハルト様。今夜は一段と冷え込みますから、ブランケットは保温性の高いカシミヤの三層織りをご用意しておきますわ。もちろん、アレルギー対策は完璧です」
夕方の冷風が吹き始めた大使館のサロン。
レオンハルトが穏やかに微笑み、エレオノーラのために淹れた温かいカモミールティーを差し出した。
「頼む。君の管理するシーツのおかげで、私は生まれて初めて、夜中に一度も目を覚ますことなく朝まで熟睡できている。我が国の軍人たちも、君が来てから顔つきが全く違う。君は我が大使館の至宝だ」
「もったいないお言葉ですわ、レオンハルト様」
受け取ったティーカップから立つ湯気は、かつて居たあの地下室の過酷な熱気とは違う、とても心地よい温かさだった。
——ただの洗濯の指示を出しているだけ。
ええ、そうですわ。
エレオノーラは紅茶を一口飲み、ふわりと笑う。
私はこれからも、ただ洗濯の指示を出し続ける。布の呼吸を聞き、天候を読み、湿度を計算し、最高の休息を設計する。私にしかできない、この完璧な実務を、私を真に必要としてくれるこの人のために。
新しい『大使館専用リネン管理台帳』のページをめくるエレオノーラの指先は、今までにない誇りと喜びに満ちていた。
窓の外では、夕陽が美しく燃えるように沈んでいく。明日はきっと、極上の洗濯日和になるだろう。
(了)




