5組目 カスハラ
8月上旬、都内を襲ったのは「恵みの雨」とは程遠い、肌にべっとりと纏わりつくような湿った熱気だった。
多摩川の堤防沿い。視界を遮るほどの激しい雨が、タクシーのフロントガラスを叩きつけている。配車アプリの画面には「乗車地点に到着しました」の表示が出てから、すでに15分が経過していた。
ようやく現れたのは、ブランド物のバッグを傘代わりに掲げた40代の女だった。
荒れる車内
ドアが開くと同時に、冷房の効いた車内にムッとする熱気と、高級そうな、けれどどこか刺々しい香水の匂いが流れ込む。
「お待たせしました、なんて言わないわよ。この雨なんだから、待つのが仕事でしょ?」
後部座席にどさりと座り、女は濡れたパンプスを苛立たしげに鳴らした。
「京急蒲田まで。急いで。飛行機の時間に間に合わないの」
ドライバーが「足元の悪い中、ありがとうございます。安全運転で向かいますね」と穏やかに応じるが、それが火に油を注いだ。
無謀な要求
「安全なんてどうでもいいわ。とにかくスピードを上げて。ここ、40キロ制限? バカ言わないで。誰も見てないんだから出しなさいよ」
第一京浜へ向かう道中、雨で視界は最悪だ。路面は滑りやすく、歩行者の飛び出しも予断を許さない。しかし、女の舌鋒は鋭さを増していく。
「ほら、前の信号、黄色よ! なんでブレーキ踏んでるの? 加速して突っ込みなさいよ! 止まるなんて時間の無駄。私が遅れたら、あんた責任取れるわけ?」
バックミラー越しに見える女の瞳は、焦燥と傲慢さに濁っていた。雨粒が窓を叩く音に負けない声で、彼女は無理難題を叩きつけ続ける。
• 制限速度の無視: 「メーターなんて飾りでしょ。もっと踏んで!」
• 信号無視の強要: 「黄色は『進め』よ。止まるのは無能の証拠」
終着地、京急蒲田
タクシーが水飛沫を上げながら、ようやく京急蒲田駅のロータリーへ滑り込む。
「……チッ、結局ギリギリじゃない。アプリの評価、最低にしておくわね」
彼女はスマホの画面を乱暴に操作すると、叩きつけるようにドアを閉め、雨の中へと消えていった。残されたのは、湿った空気と、重苦しい静寂。
ワイパーが規則正しく、彼女が持ち込んだ苛立ちを拭い去るように動き続けていた。
この物語に登場した40代の女性。彼女にとっての「15分」は単なる遅刻の埋め合わせだったのかもしれませんが、ドライバーにとっては「命」と「免許」を天秤にかけさせられる、あまりに重い強要でした。
タクシーという便利なインフラの裏側で、日々こうした無理難題と向き合っている人々がいます。
• 「急いでいるから」という理由は、他人の安全を脅かす免罪符になるのでしょうか?
• もしあなたがこのタクシーの運転手だったら、彼女の言葉にどう応じ、どんな感情を抱くでしょうか?
公共の場での振る舞いや、サービスを提供する側と受ける側の「境界線」について、皆さんはどうお考えになりますか。




